誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

パーティーの余韻が残る庭/『レイチェルの結婚』

傷を抱えながらもより良い人生を選べることを描く

映画『レイチェルの結婚』は、ある一家が結婚式を迎えるまでの数日前をドキュメンタリータッチで描く作品。結婚式という家族にとって人生で重要な日を迎えるまでの数日間を描きながら、家族や姉妹の抱える葛藤や感情、思いを浮き彫りにし、その和解や解消を描く。

レイチェルという姉と、キムという妹のふたりがこの物語の主人公。キムはドラッグ中毒のリハビリ施設の入退院を繰り返していたが、姉レイチェルの結婚式に出席するため、久しぶりに実家に帰ってくる。結婚式の準備中とあって、華やかで幸せな雰囲気に包まれる一家。しかし、キムの言動が家族の抱える問題を浮き彫りにしてゆく……。

傷は簡単に修復されるわけでもないし、ましてや消え去るものでもない。その傷跡はどれほどの時間が経過しようとも、場合によっては何年何十年も、傷口がぱっくりと開いた血が流れる生々しい痛みをもたらすものかもしれない。でも、人間はその傷跡を抱えて生きていかなければならないし、その傷跡から逃れることもできない。

けれども、人間は傷にとらわれたままでいるわけにはいかない。過去の傷は傷として抱えながらも、幸せでより良い人生を選び取って歩きはじめることも可能だ。この物語は、そういったことを示していると言えるだろう。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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想像力をいったん脇に置いていても/2016年10月のまとめ

戯曲を読むのが苦手

最近、ちょこちょこっとシェイクスピアの作品を読み返しています。昔読んだものを読み返したり、今になって初めて読んだりするものもあります。

みなさんご存知のように、シェイクスピアの”作品"を読むことは、戯曲を読むことですね。戯曲とは、簡単な舞台(場所や時間)の説明があって、その次に人物名とその人物のセリフを次々に書いているシナリオのこと。

わたし自身、戯曲を読むのは苦手です。小説とは違う脳の部分を使っているような気がするから。それは、小説の「地の文」と、戯曲の「ト書き」では、何かが根本的に違うような気がするから、というような気がします。
Factory Theatre

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歯ブラシとタバコとわずかな持ち物/『コントラクト・キラー』

ずれたところだらけの物語

映画『コントラクト・キラー』。ロンドンの水道局に15年間勤めた主人公のアンリは、ある日突然、人員整理の対象となって解雇されてしまう。人生に希望を見い出せなくなったアンリが、自殺を決意するところから、この物語ははじまる。

アンリは自殺もできず、ついには殺し屋・”コントラクト・キラー”に、自分を殺してほしいと依頼する。アンリは殺し屋に自分を殺すことを頼み、やっと死ぬことができると安心(?)したのもつかの間、花売りの美女マーガレットと出会い、一目惚れしてしまう。そこへ迫るコントラクト・キラーの影。自分を追ってくるコントラクト・キラーからアンリは逃れようとするが、コントラクト・キラーも執拗にアンリを追い回す。アンリは無事にコントラクト・キラーの手から逃れることができるだろうか……。

と書くと、この映画はシリアスな話みたいだが、むしろコメディ的な色彩が全編に漂っている。主人公のアンリをはじめ、どこかずれてる登場人物たちや状況が顔を出す。

自分に銃口が向けられ、銃弾が発射されることを望んだアンリ。けれども、そう望んだ瞬間から彼の運命は大きく方向を変えてゆく。アンリの運命が大きく方向転換する中で、アンリが持っていたずれや、アンリに関わる人々や状況の持つずれが少しずつ重なっていく。そのちょっとしたずれが重なり合い、つながることで、最後には主人公のアンリでさえも思っても見なかった地点へとたどり着くのだ。

アンリだって客観的に見れば相当ずれたところのある男だが、どうも自分ではそう思っていないようだ。それにアンリを取り巻く状況も、はたから見ているぶんにはやっぱりどこかずれたところがある。殺し屋の手下のチンピラたちも、大きな悪ではなくてあくまでも小悪、チンピラどまりだ。殺し屋・”コントラクト・キラー”ですら、完璧な悪に染まった人間ではない。

主人公のアンリの依頼通りに、アンリを殺そうとするコントラクト・キラーに追われるという緊迫感ある物語だ。だからこそ緊迫感の中にあるずれたところが、いっそうおかしさをもたらすのだろう。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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どんなに背伸びをしようとも/『おいしい生活』

展開が目まぐるしく変わるコメディ

映画『おいしい生活』は、パッとしないコソ泥のレイと、その妻のフレンチーの物語。自らを天才的な犯罪者だと思っているレイは、完璧な銀行強盗の計画を立てる。それは、銀行近くの空き店舗を借りて、表向きの商売をやりつつも、裏では銀行の金庫室に繋がる穴を地下に掘って、大金を手に入れるという計画だ。のっけからコメディ的な銀行強盗の計画を自信たっぷりに見せつけられるが、どう考えてもうまくいくわけないだろうという脱力的な思いに、わたしたちはとらわれる。

それでもレイは、妻のフレンチーにクッキーの店を開かせ、さっそく仲間たちとともに地下に穴を掘りはじめるが、穴掘りは失敗続き。なぜか、クッキーの店の方があれよあれよという間に大繁盛してしまい、レイとフレンチーは瞬く間に大きなクッキー会社の社長と社長夫人になってしまう…...。

この物語は展開がくるくると目まぐるしく変わってゆく。大金持ちになって大成功を収めた夫婦なのに、それが元になって夫婦の間に亀裂が生まれ、離婚の危機が生まれる。最後にすべてを失ったかと思えば、思わぬところから窮地を救うものが出てきて、めでたく夫婦は新しい人生を踏み出すというハッピーエンドを迎える。

前半は、大金持ちになったのはいいものの、自らの教養の無さに気づいた妻のフレンチーが教養を身につけようとする姿は、わたしたちにもの悲しささえ感じさせる。無教養の成金と陰口を叩かれたフレンチーが抱く「文化的な教養を身につけた本物のお金持ちになりたい」という思いが、「別にそんなのどうだっていいじゃん」と思っているレイとの関係に亀裂を生んでゆくところが見ものだろう。

また、後半のパーティーが開かれているお金持ちの家で、夫のレイが金庫を開けようと奮闘する場面は、コメディ的な緊迫感があって目を離せない。「どんなに大金持ちになったところで、自分は泥棒であり、何かを盗み出さずにはいられない」。そんな生まれついてのコソ泥であるレイの存在が、大金持ちになったとしても浮き足立つことなく、どんなに背伸びをしようとも、けっきょく自分は身の丈にあった自分のままなのだ、みたいなことを、わたしたちに示しているようにも思える。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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うぉぉぉ!!! ウ◯コまみれのトイレきたねぇぇぇ!!!/『トレインスポッティング』

断ち切ることを描いた映画

映画『トレインスポッティング』は、ヘロイン中毒の青年マーク・レントンが、クスリを立って新しい人生を切り開こうと奮闘する姿を描く物語。もちろん、薬物を断つのは一筋縄ではいかないので、そこに苦闘があり葛藤がある。

ドラッグ漬けのボロボロの人生から抜け出すためには、ドラッグそのものを立つことも大事だが、それと同じかあるいはそれ以上に、悪い”友達”との縁を切ることの大事さも、この映画は描いている。

もちろん、現実ではドラッグを断ち切ることも、人間関係を断ち切ることも簡単ではないし、映画の中でも一筋縄ではいかない。けれども、それらの悪いものを断ち切ったところにしか、新しい人生は切り開くことはできないとの姿勢を、この映画では明確にしている。

この映画の最後には、ドラッグや悪い”友達”を断ち切り、新しい人生に向かって光の中を歩いて行くレントンの姿が描き出される。わたしたちはそのような、何もかも悪いものを断ち切ったレントンの姿を見て、すっきりとしたすがすがしさを覚えるのだ。ドラッグや悪い”友達”に限らず、わたしたちをとらえる悪癖みたいなものを、今度は自分も断ち切ってみよう。そんな気持ちさえ抱くのだ。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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