誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

何かが浄化されてゆく過程を描く物語/『アパートの鍵貸します』

何かが浄化されてゆく過程を描く物語/『アパートの鍵貸します』:目次

  • 何かが浄化されてゆく過程を描く物語
  • ゆがんでいて不健全な場所にいた気弱で流されやすい人物
  • こんなところで何をやっているのだろう
  • フランへの一途な愛情
  • 「成り行き」からの決別
  • バクスターの中に輝くもの
  • 映画の概要・受賞歴など
  • 参考リンク

何かが浄化されてゆく過程を描く物語

映画『アパートの鍵貸します』を一言で言い表すとするなら、純愛と人間性を取り戻す物語だと言えるだろう。主人公のバクスターは、人間性の失われたオフィスで、まるで機械のように働くことにうんざりしていた。同時に、成り行きで自分の部屋を上司の逢い引きの部屋として貸し出していることにもまたうんざりしていた。

そんな倦怠感を抱えたバクスターは、エレベーターガールのフランに恋することで、そういったうんざりしたものの満ちる世界から抜け出し、新しい世界へ旅立つ。この物語はその過程を描く作品である。

物語はクリスマス前から大みそかにかけて進行する。クリスマスから新年を迎えるという時期だ。クリスマスを迎えるあたりまで、主人公バクスターの上記のような生活はゆがんで不健全で孤独なものだった。

けれども、フランへの愛情に目覚めることで、バクスターはゆがんで不健全で孤独な生活から抜け出そうと奮闘し、そしてまさに新年を迎えようとしている大みそかには、ゆがんで不健全で孤独なものを手放すという決意がもたらす、真に大切なものを手にいれる。

ゆがんだ不健全な世界が、バクスターが恋するフランへの純愛に基づいた思いによって、少しずつ清められていく過程を、この物語は描いていると言えるかもしれない。物語が終わったあとには、一年が終わり、新しい年を迎えるときの清冽な気持ちを抱くかのような、何かが浄化されたような、そんな気持ちさえ抱くのだ。
Keys


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

続きを読む

どこまでも居心地が悪く、その不安定さに苛立つ物語/『マーゴット・ウェディング』

どこまでも居心地が悪く、その不安定さに苛立つ物語/『マーゴット・ウェディング』:目次

  • 居心地の悪い物語
  • 不安定で苛立つ姉妹
  • 問題や災厄をもたらすだけの人々
  • 再生の可能性がほんの少しだけ
  • 映画の概要・受賞歴など
  • 参考リンク

居心地の悪い物語

映画『マーゴット・ウェディング』は、姉妹の確執を描いた物語。ニューヨークで暮らす作家マーゴットの元に、妹のポーリンが結婚するとの知らせが届き、マーゴットは息子のクロードを連れて故郷を訪れる。マーゴットは久々に妹ポーリンとの再会を喜ぶが、ポーリンの婚約者マルコムが芸術家気取りの無職のどうしようもない男だと知り、不安を抱く。結婚式までの日々、マーゴットはクロードとともに実家で過ごすが、徐々に姉妹の確執があらわになってゆく……。

物語全編を通じて、わたしたちは居心地の悪さを感じる。同時にまた、苛立ちや不安定さも感じ続けることになる。これは、この物語の多くの登場人物たちが、過剰なものと欠落したものをどこかに抱えていて、精神面で成熟した人物がほとんどいないことに由来するのではないだろうか。

主人公のマーゴットは情緒不安定なところがある。不安定さと苛立ち。マーゴットは、そのようなものを常に抱えている人物として描かれる。マーゴットは夫のジムとの関係はうまくいっておらず、離婚することを考えてはいるが、その決断を下すまでには至っていない。夫婦の関係を続けることにも、離婚することにも不安を抱えたまま、どちらにも踏み出せないままでいる。

妹のポーリンは、マルコムとの結婚に向けて準備を進めている。前の夫との間に娘のイングリッドがいるが、前の夫との関係は、マーゴットのせいで破綻してしまっている。今はマーゴットに怒りは抱えてはいないが、姉に裏切られたとの気持ちを消せないまま抱えている。そのせいで、ドラッグやカルト、くだらない自己啓発にはまっている人物だ。そして今、芸術家気取りの無職で、どうしようもないマルコムと結婚しようとしている。

『マーゴット・ウェディング』は、そんな姉妹が久しぶりに再開することからはじまる物語だ。過去には衝突があったけれども、とにかく今は仲の良い姉妹となろうと、マーゴットもポーリンも振舞う。憎しみや妬み、どうしようもない許せなさを抱えてはいるが、とにかく子どもたちやマルコムといった親しい人々の手前、そういった負の感情を抑えて、仲良く振る舞おうとしている。

けれども、そこに隠しきれないよそよそしさや痛々しさを感じる。マーゴットとポーリンの間には、修復できないほどの深刻な亀裂が常に存在している。子どもたちやマルコムの前では、ふたりとも過去の確執にとらわれずに仲良い姉妹として振る舞うが、隠し切れない互いへの不信感を抱えていて、その不健全な感情が物語の端々で顔を出してしまう。だから、わたしたちはこの物語を観ている間は終始、苛立ちや不安定さにさらされ、そのせいで常に居心地の悪さを感じるのだろう。
cracked


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

続きを読む

飛び出す映画についてのエトセトラ

飛び出す映画についてのエトセトラ:目次

最近、twitterで飛び出す映画について書いたので、こちらのブログにも加筆することにしました。
そして、「ほしい物リスト」から本が届きましたので、お礼とご報告です。

VR、3D映画、そして立体映画

最近、VRが話題になっていますね。VR専用のゴーグルをかけて、VR専用の映像を見ると、立体感・臨場感たっぷりに、映像の世界がまるで現実に現れたかのように、その映像が見える(感じられる、と言った方が適切かな)というものです。

わたしは、まだVRを試したことがないので(なにせスマートフォンを持っていないため。モバイル端末は、ガラケーとiPad mini4を併用しています)、どのようなものか実感としてはわかりませんが。

しばらく前から3D映画も映画館で上映されるようになりました。こちらの3D映画も、わたしはまだ実際に観たことがないんですが、登場した頃は話題になったことを覚えています。まだ3D映画を見たことがないのは、わたしの住んでいる県には、まだ3D映画を上映できる映画館がないからという、地理的な理由です。

その流れで思い出したのですが、子どもの頃に立体映画を観た記憶があります。立体映画とは、特殊なゴーグルをかけて映画を観ると、その映像が立体的に飛び出して見えるという、今でいう3D映画の先駆けとなったものです。

続きを読む

もう二度と観ることのない映画/2017年5月のまとめ

『誤読と曲解の映画日記』/2017年5月のまとめ:目次

  • もう二度と観ることのない映画
  • 『誤読と曲解の映画日記』今月のまとめ
  • 『誤読と曲解の読書日記』今月のまとめ
  • 管理人からのお知らせ:Amazonほしい物リスト

もう二度と観ることのない映画

「もう二度と観ることのないだろうなあ」という映画があります。わたしにとってのそんな映画は、『リリィシュシュのすべて』でしょうか。もう10年以上も昔に見た映画ですが、とにかく映画を観ながら心がバキバキにへし折られたことを覚えています。

もちろん、映画作品として内容がつまらないとか、そういう理由ではなくて、むしろその内容からあふれ出る重くて鬱屈したものに耐えきれないくらい心が重くなるほどだった、みたいな感じでしょうか。

そのために、再び心がへし折られるのが耐えられないから、二度と観ることはないのだろうなあということです。映画作品として、ここまで誰かの心に影響を及ぼすとしたら、その作品の完成度は大成功と言えるのではないでしょうか。

もちろん、内容が重くて観るのがつらいなあ、再び観るのはきついなあ、という映画はいくつかありますが、よく考えてみればそういった映画作品は、人々の心に深い印象をずっと与えることができているという意味で、やはり作品としてひとつの成功なのでしょうね。

考えてみれば、内容がつまらなかったとか、理解できなかったとか、何の印象も残らなかったとか、そういう映画作品だったら、そもそもはじめから「もう二度と観ることのないだろうなあ」とも思わないでしょうし。

それでは、『誤読と曲解の映画日記』今月のまとめをどうぞ。

続きを読む

喜びのために生きよう! 踊って歌うために!/『ジミー、野を駆ける伝説』

喜びのために生きよう! 踊って歌うために!/『ジミー、野を駆ける伝説』:目次

  • 束の間の自由さえ抑圧されてゆく
  • 歌とダンスは自由の象徴
  • そこでなら誰もが善良になる
  • 喜びのために生きよう! 踊って歌うために!
  • 自由を求めて野を駆ける
  • 映画の概要・受賞歴など
  • 参考リンク

束の間の自由さえ抑圧されてゆく

映画『ジミー、野を駆ける伝説』は、自由の大切さや自由を追い求めることの尊さを描いた物語。自由がけっして当たり前のものではなかった時代に、自由を求める主人公ジミー・グラルトンの活動と、それを抑えようとする人々との対立を描く。

1932年、10年ぶりに祖国アイルランドに戻ってきた元活動家のジミー・グラルトン。一度はアメリカへ国外追放されたジミーは、再びニューヨークからアイルランドにある故郷の村へと帰ってくる。かつては人々から絶大な信頼を集めたジミー、その帰郷を仲間たちに歓迎される。かつての村の仲間たちは、ジミーのところに駆け寄り、昔のように「ホール」を再開して欲しいと頼む。

けれども、ジミーは仲間たちの願いを断ってしまう。ジミーは年老いた母親と一緒に、ひっそりと静かに畑を耕して生きていきたいと願っているからだ。細々と畑を耕していたジミーは、仲間たちの熱意に押され、ついに「ホール」を再開させるが、そのことを面白く思わない人々との争いを招くことになる…...。

この映画の背景には、アイルランド内戦後の社会構造の問題が大きく横たわっている。つまり、地主や教会といった支配者層による、農民や労働者といった被支配者層の支配と抑圧、といった構造だ。言うまでもなく、主人公のジミーや彼の仲間たちは、農民や労働者の側に立つ。

けれども、ジミーや村の仲間たちは自由を求めて積極的に対立を煽ったり、支配に反抗したりするわけではない。むしろ、支配や抑圧の合間に喜びや楽しみを求め、あるいは仲間たちと学び合う場として、ジミーのつくった「ホール」は機能する。しかし、その束の間の自由でさえも、支配者層からは目障りなものとしてとらえられてしまう。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

続きを読む