”今この場所”から逃げ出してしまう物語
ジム・ジャームッシュ監督作品『パーマネント・バケーション』、青年期特有の孤独や倦怠、無力感が画面からあふれる作品。
青年期特有の孤独や倦怠、無力感。それは、自分でも理由のわからないまま、まわりの世界に倦み、自意識だけが先走るものの、現実の世界に対して自分は何もできないのだと無力感に苛まれ、けっきょく自分は誰にも理解されないと孤独を深める、みたいなことなのではないか。
ところで、ジム・ジャームッシュ監督の作品は退屈だと言われるようだ。たしかにそうかもしれない。意味があるとは思えないような会話や長い沈黙の続く場面、特にドラマチックなことも起こらない日常のひとコマを延々と映し出している場面などが多用されている。だから、ジャームッシュ監督の作品を観ていると、時に腹立たしいほどの退屈が襲ってくる。
退屈でつまらない映画作品ならば映画館を出てしまえばいいし、それがDVDだったらディスクを取り出してしまえばいい。そして他に何か有益なことをはじめればいい。
でもちょっと待ってほしい。わたしたちの人生においてはそうはいかない。わたしたちは、自分の人生につまらなさや退屈さを感じてしまっても、わたしたちの人生そのものから出ていってしまうわけにはいかない。
自分が存在する”今この場所”が退屈でつまらないものだったら、できることは限られてしまう。とりあえずは”今この場所”から逃げ出してしまうこともひとつの案だろう。
※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。
一風変わった人々の一風変わった話
主人公の高校生アイシュロス・パーカーは、”自分が今ここにいること”に強烈な違和感を抱いている。少なくともわたしはそんな印象を受けた。パーカーは自分の住むニューヨークの街を漂流しながら、一風変わった人々と出会い、人々の語る一風変わった奇妙な話に耳を傾ける様子で、この映画の大半は費やされる。
たとえば、精神病院に入院している母親。パーカーが母親に語りかけるたびに同室の入院患者は、ふたりの会話を聞いて、常に奇妙な感じのする大きな笑い声をあげる。
打ち捨てられたビルの瓦礫の中に住む戦争に怯える人。街の上空を飛ぶ飛行機やヘリコプターの音に敏感で、実際にはない銃撃音や爆撃音も聞こえている。そして戦争でひどい目にあったことがあるのか、常に敵の姿に怯えている。
時代の先に行き過ぎたサックスプレイヤーの話を語る人。そのサックスプレイヤーの音は時代を先取りすぎて、同時代の誰にも理解されなかったという。そこでサックスプレイヤーはビルの屋上から飛び降り自殺を図ることを決意する顛末を語る。
そのように主人公のパーカーが奇妙な人々に出会い、奇妙な話に耳を傾けるのは、”自分が今ここにいること”に強烈な違和感を抱くパーカーが、”自分が今ここにいてはいけない”ことを確認するための作業ではないだろうか。その作業を通じて、パーカーは"自分が本来存在するべき、ここではない場所”を、より深く追求する。
over the rainbow
作中では”over the rainbow”が効果的に流れる。作中に登場するおじさんが語るサックスプレイヤーが奏でる。そのサックスプレイヤーは時代の先に行き過ぎ、自殺を図ったという話をおじさんはパーカーに語る。
ところで、”over the rainbow”の歌詞には、こんな一節がある。“虹の向こうであなたの信じた夢はかなう”、という一節だ。
物語の冒頭で、主人公の高校生アイシュロス・パーカーは「僕は現実の中で夢を見ているんだ」というセリフを口にする。そして、孤独や倦怠、無力感にうんざりしながらニューヨークの街をさまよい続けたパーカーは、物語の最後でパリへと旅立つ。あたかも、虹の向こう側へと向かって旅立つかのように、パーカーは”今この場所”から逃げ出してしまう。
主人公パーカーは、街をさまようことで何を発見したのか、どんな夢を叶えることを求めてパリへと旅立つのか、はっきりとしてことは明かされない。そのあたりは映画を観る観客の想像に任されている。パーカーはどのような夢を抱いているのだろう、何を実現するためにパリへと旅立つのだろう、観客の胸にそんな疑問を抱かせる。
同時にそういった疑問は、観客の胸に自問を突きつける。自分はどんな夢を抱いていたのだろう。自分は何を実現するためにここまで来たのだろう、と。
ところで、パリへと旅立とうとするパーカーは、パリへ向かう船に乗り込む直前、ひとりの若い男性と出会う。パリからニューヨークに到着したばかりの、パーカーと同じくらいの年齢で似たような背格好の青年男性だ。
主人公のパーカーと似通った男性とが出会う場面が示すものは何だろう。それはきっと、主人公のパーカーは何かを求めてパリへと旅立つけれども、けっきょくは同じところに立つのだということを示しているのかもしれない。
”今この場所”から逃げ出してしまっても、また孤独や倦怠、無力感に苛まれる日々が待ち構えていることを示唆している。虹の向こうへと行ったとしても、また遠くに虹が見えるだけなのだ。永遠に虹はどこか遠くにあって、つかまらないものだからだ。
永遠の夢
作品タイトルの『パーマネント・バケーション』、日本語に訳せば『永遠の休暇』となるだろうか。『永遠のモラトリアム』と言っていいのかもしれない。けれども”永遠”とは言っても、それはいつか必ず終わりを迎えることになる。見えていた虹がいつか必ず消え去ってしまうように。
若者はいつか必ず『永遠の休暇』が終わったことを知る。それは若者が大人に成長したときだ。そのとき、過ぎ去った日々を振り返って、もう二度と帰らない日々に思いを馳せ、心を傷めるのだろう。自分はどんな夢を描いていたのだろう、何を実現してここまで来たのだろう、と。
そしてあの頃に抱いた夢は、まさに夢と消え、幻となったことを知る。かつて若者だった大人の多くがそうであったように。夢は夢のまま、大人になったあとも苦い記憶として残る。
だからこそ、ニューヨークの街をさまよい続け、最後にパリへと旅立つ主人公の高校生アイシュロス・パーカーの姿が時に痛々しくもあり、愛おしくも思える。パーカーは、大人になったわたしたちのかつての姿だからだ。
『パーマネント・バケーション』、それは永遠の夢を描いた作品だと言える。
参考
1)Yahoo!映画/『パーマネント・バケーション』
movies.yahoo.co.jp
2)映画.com/『パーマネント・バケーション』
eiga.com
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