誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

奇妙でおかしく、混乱していてあたたかい/『ブルー・イン・ザ・フェイス』

ひとつの理想の街

『ブルー・イン・ザ・フェイス』は、作家ポール・オースターが『スモーク』に続き、脚本を書いた作品。舞台は『スモーク』と同じように、オーギー・レンがニューヨークのブルックリンで営むタバコ屋「ブルックリン葉巻商会」。その店にやってくる客たちとの、一風変わった日常が描かれる。

こちらの『ブルー・イン・ザ・フェイス』には、ストーリーらしいストーリーはない。タバコ屋を訪れ、あるいは店の前を行き交う人たちが画面に現れ、一風変わった何かを語り、一風変わった何かが起こるというもの。

さまざまな人々が行き交い、言い争い、気があい、罵りあい、笑いあう。軽薄でナンセンス、けれどもあたたかく、楽しい。そんなブルックリンの人々が織り成す日常(少々変わってはいるけれど)が、いくつかのポートレートとして映し出されている。

『スモーク』のように、切実な傷を抱えた誰かが救われるという話ではない。しかし、この作品を観終わったあと、このようなあたたかな理想の街がどこかにあればいいなと願ってしまうような映画だ。


ところで、この『ブルー・イン・ザ・フェイス』は出演者が豪華である。そして、みんなどこか奇妙な役回りを演じる。

ルー・リードは、タバコ屋のカウンターに座り、変なメガネをかけて怪しげな哲学を語り続ける。

ジム・ジャームッシュは、生涯最後のタバコをオーギーと一緒に吸うためにタバコ屋へやってきて、タバコにまつわる思い出話を語り続ける。

マイケル・J・フォックスは、ありもしない架空の財団を名乗り、店の前にいた常連客に怪しげで下品なアンケートをとる。

マドンナに至っては、オーギーのところへやってきて、電報の内容を歌とダンスで伝える”歌う電報”の役をしている。

以上のようなキャストを見ても、この作品がどんなに奇妙でおかしな物語かがうかがえるだろう。しかし、『ブルー・イン・ザ・フェイス』は、単に一風変わった奇妙な映画で、観る者が混乱するばかりの映画ではない。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

本当にひどいところから生まれるもの

『ブルー・イン・ザ・フェイス』の冒頭は、「ブルックリン葉巻商会」の店先で若い女性のハンドバッグを少年がひったくるところからはじまる。オーギーは少年を追いかけて捕まえ、ハンドバッグを取り戻し、このひったくり少年を警察に突き出すと若い女性に告げる。若い女性は、ひったくり犯はまだ子どもだから許してあげてほしいとオーギーに頼むが......。

また、この物語の中で、爺さんの営む食堂に10歳の少年が強盗に入ったという話をトミーが語る場面がある。10歳の少年は金を盗みに食堂に入ったが、食堂の爺さんに見つかったため、爺さんの頭を瓶で殴り倒して金を奪って逃げた。翌日、少年の母親は大金が自分の家にあることに気づき、子どもに問い詰める。母親は食堂に少年を連れて行くと、頭に包帯を巻いている爺さんがいた......。

そんな話をひととおり語ったトミーは最後にこう言う。「本当にひどいところから、本当に素晴らしいものが生まれることだってある」と。わたしはこのふたつの子どもの話こそ、『ブルー・イン・ザ・フェイス』全体を象徴するような、懐の深い話だと感じたがどうだろうか。

もちろん、ふたつの子どもの話は、警察や法律に関する一般的な知識や常識を持ち合わせている我々から見れば、けっこう無茶苦茶な話である。だが、この「けっこう無茶苦茶な話」に象徴されるものこそが、この作品の特徴であろう。みんな汚れのない善人ではないが、生まれついての悪人でもない。ブルックリンでは、そんな住人たちが衝突し、言い争い、隣り合って生きている。

そのような街での「けっこう無茶苦茶な話」に出てきた子どもは、おそらくは自分の行ったことが十分に悪いことだと身にしみただろう。冒頭で若い女性のハンドバッグを奪った子どももまた、どこかで悪いことだと知り、胸を痛めるのだろう。あるいは、すでにオーギーの言葉に、自分の行為が悪いことだと気づいているのかもしれない。そんな子どもたちは、やがてブルックリンの住人となってゆくのだろう。

そんな街の人々の寛容さや優しさが街全体を育み、人々を結びつける。「本当にひどいところから、本当に素晴らしいものが生まれることだってある」ように。

ブルックリンの住民たち

この『ブルー・イン・ザ・フェイス』には、店にやってくる人々が、ブルックリンに関するデータを読み上げる場面がいくつも挿入される。それらの常連客たちはさまざまな人種や民族であり、さまざまな宗教や国籍を背景に持つことがわかる。ブルックリンはこのように、一見バラバラな人々の住む街だ。けれども、みなバラバラなのかというと、そうではない。

作中に、店のオーナーであるヴィニーがオーギーのところへやってきて、店の売却を決めたからと立ち退きを迫る場面がある。「ブルックリン葉巻商会」は赤字続きで、店を売ってしまったほうが大儲けできるからだ。

店の売却を告げられたオーギーはヴィニーに語る。「そりゃたしかにちっぽけなつまらん店だ。けどな、ここにはみんな来るんだぜ」と。それから常連客の名前と何を買っていくのか、そらんじてみせる。この店にやってくるのはタバコを買う客だけではなく、雑誌を買う主婦や、学校帰りにお菓子を買いに来る子どもだっていると訴える。そして最後に、ヴィニーにこう告げるのだ。

「この店には、ここいらみんなの暮らしがあるんだよ。ここはみんなの溜まり場なんだ」

オーギーのタバコ屋が、ブルックリンに住む人々のよりどころになっていると訴えるのだ。国籍も人種も宗教も言語も違う人々がやってくる。混沌としているが多様な背景を持つ人々は、ブルックリン葉巻商会ではみんな同じ”客”となり、街の一員であることを確かめる、あるいは実感するのだろう。

街はたくさんの人々がやってきては去っていく。バラバラで混沌とした風景であり、そこに一貫性はないように見える。けれども、人々はどこかで結びついている。オーギーの店に客としてやってくるように。あるいは、かつてブルックリンに本拠地を置いていたドジャースを応援するように。

そんなふうに、ブルックリンという街に住む人々の結びつきが、この映画では描かれている。そのようなゆるやかな人々のつながりが、我々の心に温かさを残すのだ。

参考

1)Yahoo!映画/『ブルー・イン・ザ・フェイス』
movies.yahoo.co.jp

2)映画.com/『ブルー・イン・ザ・フェイス』
eiga.com

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