誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

大いなる徒労と疲弊/『ビッグ・リボウスキ』

虚構と現実が入り乱れる物語

ビッグ・リボウスキ』は、誘拐事件を軸にしたコメディ映画。ただ、物語はまっすぐに進まない。必ず肝心なところで別の方向へ進むようにねじ曲げられ、ゆがめられてしまう。混乱に拍車がかかり、虚構の上に虚構が重なり、混沌がますます混沌としてゆく。わたしたちの目の前で起きているのは真実なのか、わたしたちはいったい何を目にして、何を見ようとしているのか。

主人公はうだつの上がらない中年男のジェフリー・リボウスキ、通称デュード。街一番の無精者だが、友人たちとボウリングをするのが楽しみなようだ。物語の中では、友人たちとともにボウリング大会にエントリーしている。結婚はしていないようだ。無職でどうやって生活費を稼いでいるのかは不明。長髪でだらしない服装をしている。

そのような主人公ジェフリー・リボウスキと同姓同名の大富豪リボウスキの妻が誘拐されてしまう。誘拐事件の身代金の受け渡しと人質の保護を、大富豪のリボウスキに頼まれたもうひとりのリボウスキはその頼みを引き受けるが……、という物語。

いったいなぜ大富豪のリボウスキは、こんな無精者で見るからにうだつの上がらない中年男に、誘拐事件の解決を依頼するのか、その思惑はいったい何なのか、デュードはいったいどこへ行こうとして、どこへ導かれるのか、といったところがこの誘拐事件の、そしてこの物語の鍵なのかもしれない。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

面倒くさいベトナム帰りのおじさん

この映画のキモは、ベトナム戦争帰りのおじさんであるウォルター・ソプチャクのせいで、ストーリーがゆがみにゆがんで、混乱が混乱を呼び、物事が混沌としてゆくというところだろう。ウォルターはデュードの親友で、ボーリング大会に一緒にチームを組んで参加している。そんなウォルターはデュードと一緒になって(というか、はじめは特に頼まれたわけでもないが)誘拐事件の解決に乗り出す。

ウォルター・ソプチャクは、この物語で最もキャラクターの濃い人物だ。ウォルターにかかれば、世界のあらゆることはベトナム戦争に置き換えられた上で理解され、語られる。その理解や言葉のほとんどすべてが、強引なこじつけではある。そんな彼は、とても短気ですぐに頭に血が上り、デュードや周囲の人々に怒鳴り立ててしまうほどに短気な人間だ。どうかすると、銃を取り出し、相手に銃口を向けた上で話をつけようとまで言ってのける。

そのように、ウォルターは基本的に面倒くさいおじさんだ。デュードは終始、彼に振り回されて、散々な目にあわされる。ついにウォルターはデュードから何度も「もうお前の手助けはいらない」と怒鳴られてしまうほど、誘拐事件の解決に邪魔をして混乱をもたらす。しかし、デュードは何かあるとすぐにこのウォルターを頼りにしてしまうので、基本的には切っても切れない仲の親友なのだろう。けれどもそのことが、誘拐事件の解決にますます混乱を招き入れてしまう。

わたしたちは、そんなウォルターに時にむかつき、時に怒りさえ覚える。デュードのように。あんたがしゃしゃり出てきて余計なことをしでかしたから、物事は間違った方向に進んでしまったんだ。とにかくでかい声で怒鳴って、銃口を突きつけて力づくで物事を解決しようとするんじゃない。そんなことを言いたくもなる。

頑固で短気、物事を一面的に理解し、力づくで問題をねじ伏せようとするおじさん。極端ではあるけれど、ウォルターのようなおじさんは、おそらくは世の中に、そしてアメリカにたくさんいるのだろう。映画で戯画的に描くほどに。

疲弊と消耗が続く

映画『ビッグ・リボウスキ』では、冒頭にテレビ画面が映し出される。ブッシュ大統領父親の方)が、湾岸戦争の開始を宣言するところだ。このシーンは、この映画の時代的背景を説明するためだけに使われたのだろうか? あるいはもっと何らかのメッセージを含んでいるものだと考えられないだろうか。

もしそうだとすると、この戦争は狂言誘拐のような”虚構"なのだというメッセージなのかもしれないというのは考えすぎだろうか。戦争は大金をかすめ取るために大勢の人々を巻き込んで行う愚かな行為だと示しているのではないか。あたかも作中の狂言誘拐が、大金をかすめ取るために大勢の人々を巻き込んで行う愚かな行為であったように。その上で、戦争は大いなる虚構であり、その虚構の上で大勢の人々が疲弊し消耗するのは、大いなる徒労であると示しているのではないか。

そんなふうに考えると、ウォルター・ソプチャクという人物も、ある意味ではそんな愚かさの象徴でもある。ウォルターは何かあると大声でがなり立て、物事を力づくでねじ伏せようとする。それは、戦争も同様である。戦争は往々にして、物事を力づくでねじ伏せようとするものだからだ。


ところで、デュードはオンボロな車に乗っているが、話が進むにつれこの車はどんどんオンボロさを増してゆく。車がボロボロになっていくのが、主人公の中年男デュードが朽ち果てていることを示しているようで、わたしたちは少しの切なさを抱く。わたしたちの目から見れば、デュードはこの”虚構”の物語を通じてただ疲弊し、あるいは消耗しただけのように見えるからだ。

最後に再びデュードはボウリング場でボウリングをするのだが、もはや友人のひとりは死んでしまったあとだ。何も変わらない日々が続くように描かれるが、ただ疲弊し消耗した末に友人のひとりを永遠に亡くし、再びうだつの上がらない日々が訪れるのはけっこうグロテスクなことのようにも感じる。デュードはこれからも同じところをぐるぐるとまわるだけで、けっきょくはどこにもたどり着けそうもないからだ。

その意味で『ビッグ・リボウスキ』は、デュードに象徴されるような大いなる徒労と疲弊を描いた物語であるとも言えるだろう。

参考

1)Yahoo!映画/『ビッグ・リボウスキ
movies.yahoo.co.jp

2)映画.com/『ビッグ・リボウスキ
eiga.com

3)Filmarks/『ビッグ・リボウスキ
filmarks.com

4)『ビッグ・リボウスキ』/公式ホームページ
www.uphe.com

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
管理人のFilmarks:https://filmarks.com/pc/nobitter73
管理人のtwitterのアカウント:https://twitter.com/nobitter73
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー