誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

想像力と支配欲の先にあるグロテスクさが物足りない/『ルビー・スパークス』

想像から生まれた”理想の恋人"

映画『ルビー・スパークス』は、支配欲にとらわれた人間が、痛い目にあって成長する物語だと言えるのかもしれない。主人公のカルヴィン・ウィアフィールズは小説家。デビュー作は大ヒットしたけれども、今ではスランプに陥り、何も書けずに苦悩していた。そんなカルヴィンは精神科医のところに通うが、医師の勧めで夢に出てきた女の子を主人公にした小説を書きはじめる。

ところがある朝、カルヴィンの書く小説のヒロイン、ルビー・スパークスが現れる。カルヴィンは戸惑いながらも、彼女との楽しい生活をはじめる。やがて、彼女の言動はカルヴィンが書いた小説のとおりになることに気づく。理想の彼女ルビー・スパークスとの生活をカルヴィンは楽しむが……、というストーリーの恋愛映画だ。

この物語、人間が意のままに人間を支配するグロテスクさを描く物語でもあるので、そのグロテスクさをしっかりと描写すれば、もう一段深みのある物語になったと思われる。

支配しようとするカルヴィンと支配を拒むルビーの衝突が今ひとつありきたりであったからだ。特にクライマックスとも言える場面、カルヴィンがページを書き足していくたびに、ルビーの言動がころころと変わる場面の描写が少々漫画的に見えてしまったからだ。そういった理由で、深みの足りない物語になってしまったところが少々残念であった。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

グロテスクなまでの支配欲

ひとまず、この物語は恋愛映画にカテゴライズされるだろう。主人公の小説家カルヴィンが生み出した理想の恋人と理想の恋愛を楽しむが、やがて想像の産物だったルビー・スパークスは、カルヴィンが彼の理想を当てはめようとすることに反発する。

この物語はそんな恋愛映画のセオリーをなぞるが、他の恋愛映画と一味違うのは、ヒロインのルビー・スパークスは、主人公のカルヴィンが書いた小説から生み出した想像上の存在(実態は伴っているが)だということだ。

はじめのうち、カルヴィンとルビーはうまく関係を結び、それなりに良好な関係を続けるが、次第に二人の間はうまくいかなくなる。ルビーはカルヴィン以外の人々と触れ合うようになる。社交性のあるルビーと社交性のないカルヴィンの間には、次第に亀裂が深まってゆく。やがてルビーが自分から遠い存在になりつつあることに危機を抱いたカルヴィンは、ルビーをもっと自分の意のままに操りたいと願い、そのようにふるまうよう原稿を書き続ける。すると余計にカルヴィンとルビーの関係はおかしくなってしまう。
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恋愛において、大なり小なり人間は支配欲にとらわれる。その支配欲が高じるとDVやストーカーなど、暴力をともたった関係に陥ってしまうこともある。そういう意味では、この『ルビー・スパークス』も、けっこうグロテスクでおぞましい映画だと言えよう。人間が人間を支配してしまおう、意のままに動かしてしまおうという欲望に、カルヴィンが突き動かされるままに行動してしまうからだ。

ただし、本作はDVやストーカーを描いた物語ではない。直接的な暴力までは用いないが、相手への恋愛感情が高じてしまった末の支配欲を描いた物語である。カルヴィンが生み出した理想の彼女ルビー・スパークスを、カルヴィンが(焦燥感や不安感に突き動かされて)自分の願望のままに動かしてゆくからだ。

それはいくら直接的な暴力的手段を用いなくても、けっこうグロテスクなことではある。いくら相手が自分の想像が生み出した理想の人間であっても、自分の意のままに相手を操る、あるいは拘束してしまうのだから。

そのため、クライマックスでカルヴィンが何かをタイプするたびに(タイプライターを使っているから)、ルビーの行動や言葉がくるくると変化する場面が、とても安っぽい感じがして残念ではあった。あの場面は、人間が人間を意のままに支配することは、こんなにもグロテスクでおぞましい行為なのだということを示す場面なのだろうけれども、安易な演出で興ざめしてしまった。

物語を通じ、ルビーの中ではカルヴィンに支配されない自我が生まれ、それが元で理想の恋愛を楽しんでいたはずのふたりの間に亀裂が走った。だから、ルビーが行動を操られながらも、自我の部分、感情や意思まではカルヴィンに支配されないまま、行動だけが支配されてしまうグロテスクさみたいなものを、もっと描いてもよかったのかもしれない。

変化のスピードの違い

この物語を通じて、ルビー・スパークスはどんどん変化してゆくが、カルヴィンの方は最後まで変化しない人間として描かれる。その変化の差も、ふたりの恋愛が上手くいかなかった原因だろう。ルビーはなぜ変化していったのだろうか? それは、ルビーが周囲の人々と関わっていったからだろう。カルヴィン以外の人々との関わり、特にカルヴィンの兄や両親との関わりが、ルビーにひとりの人間として"成長"とも呼べる変化をもたらした。

カルヴィンの想像が生み出した”理想の彼女”ルビー・スパークスとの”理想の恋愛"。はじめはカルヴィンとルビーだけの直線的な関係だったが、ふたりの関係にカルヴィンの家族が関わってくると、ふたりだけの直線的な関係だけではなくなってしまう。

ふたりだけの直線的だった関係も、ふたりを結ぶ直線の周りにたくさんの家族という点が打ち込まれ、その点それぞれがふたりと結ばれることによって、直線は面となり、ふたりも多面的な関係となる。もちろん、その点は家族だけではなく、近所の人々やカルヴィンの仕事上で関わる人々との間にも打ち込まれ、多面的に結びついてゆく。
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そんな多面的な関係の中で、ルビーは変化してゆく。子どもが親から自立してゆく成長のように。社交性のあるルビーがさまざまな人々と触れ合う中で、ルビーの心が変化、あるいは成長していったのだ。本当は、その変化こそルビーの”生みの親”のカルヴィンは、好ましく思うべきだったのかもしれない。”親と子"という直線的な関係以外にも、多彩で多様な多面的な人間関係があることを子どもは知り、成長してゆくからだ。

ところが、ルビーの”生みの親"であるカルヴィンは、非社交的な人物だった。恋人もいないし、親しい友人もいない。なんでも相談できる数少ない人物は兄だ。そんなカルヴィンは、ルビーが自分の家族と仲良くなり、少しずつ自我を得るように変わっていく姿に、嫉妬のような感情さえ抱くようになる。そんなカルヴィンは、ふたりの関係が破滅してしまうまでまったく変化しないままだ。

そのようなカルヴィンとルビーの関係は長続きするわけもなく、やがて破綻してしまう。むしろ、カルヴィンの変化のなさが、ふたりの理想的な恋愛関係を終わらせたと言ってもいいだろう。

カルヴィンは、ひとりの人間を意のままに操るなどできないことを痛みとともに知った。ようやくここに至って、カルヴィンは変化できたのだ。やがてカルヴィンはルビー・スパークスを主人公にした小説を書き上げ、好評を博す。カルヴィンは小説家としても、人間としてもひとつの成長を成し遂げ、新しいステージへとまた一歩を踏み出すのだろう。そんな予感をわたしたちに抱かせながら、この物語は終わる。今後こそ、カルヴィンが”新しい恋人”と上手く恋愛できるようにと、わたしたちが祈るような思いで、その後ろ姿を眺めているうちに。

映画の概要・受賞歴など

映画『ルビー・スパークス』の原題は、ヒロインの名前”Ruby Sparks”。2012年制作の映画。本作のヒロインであるルビー・スパークスを演じたゾーイ・カザンが、この作品の脚本と制作総指揮を務めた。なお、ゾーイ・カザンの両親もまた脚本家であり、祖父のエリア・カザンは映画『紳士協定』、『欲望という名の電車』の監督として知られる。

本作の監督は、ジョナサン・デイトンとヴァレリー・ファイス。本作の他に、映画『リトル・ミス・サンシャイン』の監督も務めた。

※この項目は、Wikipediaの「ルビー・スパークス」の項目を参考にしています。

参考

1)Yahoo!映画/『ルビー・スパークス
movies.yahoo.co.jp

2)映画.com/『ルビー・スパークス
eiga.com

3)Filmarks/『ルビー・スパークス
filmarks.com

4)『ルビー・スパークス』/公式ホームページ
movies.foxjapan.com

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