誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

自己保身と自己憐憫、そして希望/『羅生門』

自己保身と自己憐憫、そして希望/『羅生門』:目次

絶え間ない雨の音の聞こえる羅生門と緊張感の満ちる藪の中

羅生門』は、エゴイズム丸出しの人間に触れ続け、人間不信に陥った果てに、かすかな希望を見出すまでを描いた物語。羅生門でのシーンでは、絶え間なく降り続ける激しい雨の音が、わたしたちの心をざわざわと落ち着かなくさせる。藪の中の出来事を回想するシーンでは、ぎらぎらと照りつける太陽の光とそれを遮る無数の木の枝葉が織りなす、白黒のはっきりとしたコントラストが、息詰まる緊張感をわたしたちに与える。物語はこのふたつの世界を行き来しながら進む。

舞台は平安時代。京の都の羅生門の下で雨宿りをする木こりと旅法師。羅生門の半分は大きくうち崩れてしまっている。戦乱、伝染病の流行、火事や大風、地震飢饉などの不幸が相次ぎ、さらには夜な夜な盗賊が盗みを働いてまわるなど、京の都は荒れ果てていた。今にも崩れ落ちそうな羅生門の荒れ果てた姿は、荒涼としているのは京の都だけではなく、そこに住む人々の心までもが荒涼としたものに覆い尽くされてしまったことを示しているかのようだ。

木こりと旅法師はそんな羅生門の下で雨宿りしていたが、そこへ今度は下人が駆け込んでくる。雨を逃れるためなのだろう。羅生門に下では、呆然としたまま「わからない、わからない」とつぶやき続ける木こりと、やはり呆然と座り込んでいる旅法師。そんなふたりに興味を持ち、話しかける下人。そこで、木こりと旅法師が検非違使庁で見聞きしたばかりの、恐ろしくて奇妙な話を聞き出すところから、物語ははじまる。

木こりと旅法師が呼び出された検非違使庁では、事件の関係者がそれぞれが自分に都合のよい話をした。事件の関係者の話は、みな自分を憐れみ、そして自分を少しでもよく見せようとした、エゴイズムがむき出しになった話だった。物語が進むにつれ、そんな話をさんざん聞かされたあとだったために、木こりと旅法師はすっかり人間不信に陥っていたことがわかってくる。
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※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

汚い人間の本性に染まった下人と、人を信じようとする旅法師

事件は三日前に起きた。木こりが薪を取るため、山の中に深く分け入ったところ、侍の死体を発見してしまう。侍の死体のまわりには、置き去りにされた市女笠や踏みにじられた烏帽子、切られた縄が散乱していた。木こりはすぐに検非違使庁へ届け出る。ほどなくして、殺された侍の金沢武弘と妻の真砂が旅をしているところを目撃した旅法師もまた、検非違使庁に呼び出される。

そこへ今度は、侍を殺した下手人として、有名な盗賊の多襄丸が連行されてくる。検非違使庁では木こりと旅法師の前で、多襄丸の見た事件の一部始終の証言がはじまる。ところが、その証言が終わると、今度は生き残っていた妻の真砂が検非違使庁に連れてこられ、やはり事件の一部始終が語られる。さらには、殺された侍の霊を呼び出した巫女に、事件の一部始終を語らせる。

そこで明らかになるのは、三人が三人とも、事件についてまったく異なった見方を話していることだ。いったい何が事実なのか、まったくわからない。事件の真相は、関係者が語れば語るほど異なった様相を見せ、真相が藪の中に覆い隠されてしまったかのようだ。そのために木こりや旅法師は混乱して、呆然としたまま「わからない、わからない」と繰り返していたのだ。

下人は木こりの話を聞き、本当のことが言えないのが人間であり、人間は自分自身にさえ嘘をつくなんてたくさんあるのだとせせら笑うが、旅法師は、人間は弱いからこそ嘘をつくのだと、自分自身に嘘をつく人間にさえもあわれみを示す。

このように、下人はすっかり荒れ果てた京の都の風景に、心まで汚されたかのような人物だ。人間の汚い本性にすっかり身も心も染まったような存在である。だから、木こりや旅法師が人間不信に陥っていても、それが人間なんだと突き放した見方をして、ただ笑い飛ばすだけだ。そんな下人に対して、旅法師はまだ人間を信じようとしていた。

自分の嘘を覆い隠すための「演技」

検非違使庁で証言する多襄丸、真砂、そして侍の霊を呼び寄せた巫女は、三者三様の話を個性たっぷりに語る。多襄丸は自分が侍との鬼気迫る決闘に打ち勝った様子を誇らしげに語る。反省の色などまったくなく、自分がいかに腕っぷしが強いかを自慢しているかのようだ。妻の真砂は涙に暮れながら、夫に軽蔑の目でじっと見られた末に気を失ったと語る。夫への憎しみと自己憐憫にまみれた証言だ。

殺された侍の霊を呼び寄せた巫女は、おぞましい表情と語り口で、自分は無念のまま自害したと語る。多襄丸も妻の真砂も自分を見捨てたことに無念さをにじませながらも、自分がいちばんの被害者であることを強調するかのような語り口だ。巫女の表情や言動、そして語り口のおぞましさが、侍の証言を、自分の都合しか考えない自己中心的なものなのだと、わたしたちにより印象付ける。

このあたりの多襄丸や真砂、そして巫女の演技は、わたしたちの目から見ると少々大げさにも感じてしまう。多襄丸が高笑いするときの無邪気ささえも感じさせる表情や声、真砂の泣き崩れるときの体のしなりや甲高い泣き声、そして侍の霊を憑依させた巫女の神がかり的な体の動きや表情、苦悶に打ち震える声。そのような「演技」が、大げさで嘘くさくも感じてしまうのだ。

けれども、そういった少々大げさな「演技」を、映画的な演技という意味を超えて、実は多襄丸や真砂、巫女に乗り移った侍による、自分の嘘を覆い隠すための「演技」なのだとしてとらえると、わたしたちは途端にうすら寒さすら感じてしまう。人間は自分に都合よく嘘を並べ立て自己弁護に走り、自己憐憫に陥るのだという人間の本性を、そこに見てしまうからである。

このように、多襄丸、真砂、侍と三者三様の事件の一部始終を聞いた直後だけに、木こりと旅法師は混乱していた。そのために木こりは、すっかり人間不信に陥っていた。なぜなら、木こりは事件に関わる三人がみんな嘘をついていることを知っていたからだ。それは、木こり自身が事件の一部始終を目撃していたからである。

下人は、木こりが目撃した一部始終を、なぜ検非違使庁で証言しなかったのか問い詰める。木こりは自分はこんな事件に関わりあいたくなかったから、検非違使庁で証言しなかったと言い訳をする。木こりもまた、自己保身のために今まで事件の真相を誰にも話していないことが明らかになるのだ。ここでようやく、下人にけしかけられた木こりは、自分の見た事件の一部始終と、事件を通じて目撃した、あまりにおぞましい人間の姿を語るのだ。
Bamboo grove

自己保身が羅生門の下に引きずり出される

木こりが藪の中の事件の一部始終を語り終わったところに、今度はどこからか赤ん坊の泣き声が響いてくる。羅生門の裏手に赤ん坊が捨てられていたのだ。下人は赤ん坊を包んでいた、きれいな着物だけを奪い、どこかへ去ろうとする。それを木こりがとがめる。なんてことをするんだと。しかし、下人は木こりに向かってニヤリと笑い、自分はごまかされないぞと言い放つ。木こりは核心を突かれたのか、呆然と立ち尽くしてしまう。

下人は木こりに向かって、真砂の持っていた短刀の行方を尋ねる。真砂の短刀には高価な装飾が施されていたが、その行方は誰もが知らないと証言していたのだ。下人はさらに、真砂の短刀をお前が盗まないで誰が盗むんだと、木こりに詰め寄る。無言のまま視線をそらす木こりに、下人は自分だって盗人のくせに人を盗人呼ばわりするなんてなあと、木こりをあざ笑うのだ。

下人の嘲笑は、お前もけっきょくは自己保身のために嘘をついてたんじゃないかと、木こりへの宣告のようでもある。核心を突かれて何も言い返すことのできないまま立ち尽くす木こりを尻目に、下人は嘲笑を続けながら着物を持ってどこかへと去ってしまう。

人間不信に陥っていた木こりは自己保身のために、ここに至ってもまだ嘘をついていたことがここで判明するのだ。木こりもまた、知らず知らずのうちに荒れ果てた京の都の風景がもたらす、荒涼としたものにとらわれていた。朴訥で正直そうな木こりも、こっそりと盗みを働き、その事実を覆い隠すための自己保身をはかっていたことが、下人によって羅生門の下に引きずり出されたと言えるだろう。

人間不信のあとに訪れた人間への希望

羅生門の下で呆然と立ちすくむ木こりと、赤ん坊を抱いた旅法師。そのとき、ようやく雨が上がる。その場を去ろうとした旅法師に、今度は木こりが赤ん坊に腕を差し出す。旅法師は「何をする!」と叫んで赤ん坊を守ろうとし、その上「赤ん坊から肌着まで剥ぐつもりか!」と、木こりを強くなじってしまう。旅法師は木こりが赤ん坊を奪って、何事かけしからんことをやってしまうのではないかと心配したからだろう。

けれども、木こりは悲しそうな表情を浮かべ、自分の家にはたくさんの子どもがいる。そこに赤ん坊がひとり増えたところで暮らしは変わらない。だから、自分が赤ん坊を責任をもって育てると、まるで今までの自分の罪を懺悔するかのように訥々と旅法師に語るのだ。

旅法師は木こりの話を聞きながら、自分の身を恥じるような表情を浮かべる。それは、「自分は人を信じたい」と言っていた旅法師もまた人間不信に陥り、木こりでさえも信じられなくなっていたことがはっきりしてしまうからだ。そんな旅法師は、木こりの話を聞き終えると、「あんたのおかげで、私は人を信じて生きていくことができそうだ」と、赤ん坊を木こりに渡す。旅法師もまた、自分がいつの間にか、京の都のように荒廃したものにとらわれていたことを知り、それを恥じて改心したのだ。

物語のはじまりは土砂降りの雨だったが、物語の終わりには雨が上がり、太陽の光が羅生門とそのまわりを照らしはじめる。羅生門の下から出て、太陽の光があふれるところへと、赤ん坊を抱いた木こりが歩み出てゆく。そんな木こりの姿を見つめながら、わたしたちの胸にも希望がさしはじめる。雨上がりの空の雲間から差し込む太陽の光のように。

まったく人間が信じられなくなってしまうかのような奇妙で恐ろしく、救いようのない絶望的な話を聞いたあとだからこそ、人間は人間を信じるところから希望を持つことができるのだと、わたしたちは物語の最後に、そう確信するのだ。

映画の概要・受賞歴など

映画『羅生門』は、1950年公開の黒澤明監督作品。1951年ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(日本映画として初)、1951年アカデミー賞名誉賞(のちの外国語映画賞。日本映画として初)を受賞した。

原作は芥川龍之介の小説より。映画タイトルは『羅生門』だが、ストーリーの本筋は『藪の中』。

参考リンク

1)Yahoo!映画/『羅生門
movies.yahoo.co.jp

2)映画.com/『羅生門
eiga.com

3)Filmarks/『羅生門
filmarks.com

4)『羅生門』/公式ホームページ
www.kadokawa-pictures.jp

5)芥川龍之介羅生門』/青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card127.html

6)芥川龍之介『藪の中』/青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card179.html


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