誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

世界の悲惨に想いを馳せ、その悲惨さから目をそらすな/『おやすみなさいを言いたくて』

世界の悲惨に想いを馳せ、その悲惨さから目をそらすな/『おやすみなさいを言いたくて』:目次

絶望的な気分が支配するが、かすかな希望も見出せる物語

映画『おやすみなさいを言いたくて』は、理想と現実とのあいだで葛藤する女性の姿を描いた物語だ。物語全体を通じて、どちらかといえば絶望的な気分が支配する作品だ。けれども、絶望的な雰囲気の中にかすかな希望も見いだすことのできるし、それがこの物語の救いにもなっている。

主人公のレベッカは、紛争やテロといった世界の悲惨な現場へ飛び込み、写真を撮り続ける報道カメラマンとして活躍する女性だ。あるとき、自爆テロを起こす人々の取材をしていたとき、自爆テロに巻き込まれ大けがをしてしまう。

レベッカは一命を取り留めるが、心配する家族と今後はもう危険な場所に行かないと約束をする。家族はレベッカの危険と隣り合わせの仕事に理解を示していたが、実はそうではないことを知る。夫のマーカスは「君の生き方を愛している」と理解を示していたが、実は本心では心をすりつぶすほどにレベッカを心配していたのだ。

そんなマーカスの気持ちを推し量って、レベッカは家族のいるアイルランドで家族とともに幸せな生活を送ることになるが、次第に自分の中に存在する「抑えきれない何か」を抑えきれなくなってゆく…...、というストーリーである。

家族との平和で幸せな日々を選ぶのか。それとも危険な紛争地を飛び回って、人々に世界の悲惨さを伝えることを選ぶのか。レベッカはそういった選択をこれまで常につきつけられていて、そしてこの物語の中でも常にそれを問われ続けているのである。

わたしはレベッカの最後の選択を好意的に受け取った。なぜならば、レベッカの選択を理解し、応援してくれる存在があったからである。その存在があったからこそ、この物語は完全に絶望的な物語になってしまうことから救われているからである。もし、この物語の最後でレベッカがそう選択しなかったなら、レベッカのそれまでの存在意義までをも消えてしまうことになっただろう。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

理解と共感が救いとなる

レベッカの夫マーカスは妻レベッカの生き方に理解を示しながらも、物語が進むにつれてレベッカの危険を顧みない行動に苛立ち、反発すら覚えてしまうようになっていく。その一方で、家族の中で長女のステフはレベッカの仕事に興味を持ち、徐々に理解を深めていく様子が対照的だ。

ステフの通っている学校ではアフリカ・プロジェクトという発表会があり、その参考のためにステフがレベッカにアフリカの話を聞く場面がある。レベッカはかつて自身が撮った悲惨な写真を見せながら、その当時の状況や背景を説明する。アフリカのコンゴで写した、鼻と耳を削ぎ落とされた子どもの写真だ。

食い入るようにその写真を見つめ、レベッカの話に真剣に耳を傾けるステフ。世界の悲惨さを写真に収める母親の仕事や行動が意義のあるものだと、ステフがより深く理解していく場面だ。そんなステフがレベッカの撮影した写真が掲載されている新聞や雑誌の記事を、きちんとスクラップしていることが判明するシーンもある。レベッカが長く家にいないことはそれなりにストレスだが、ステフは自分の母親を誇りに思っているし、その仕事の内容にも共感していることが示されるシーンだろう。

このようにステフは家族の中で唯一、レベッカの仕事の内容を理解し、レベッカの掲げる理想に共感している人物として描かれる。次女のリサは幼すぎて母親の仕事も理想も理解できないし、夫のマーカスの気持ちは揺れ動いている。結果として、このステフの理解がこの物語の救いであり希望であると言えるだろう。

アフリカの銃声がアイルランドの家族を引き裂く

あるときレベッカは友人から、ケニアにある難民キャンプの話をもたらされるが、レベッカは二度と危険な紛争地には行かないと家族と約束したと断る。友人はなおも難民キャンプは安全が確保されているから大丈夫だと勧めると、一緒にいた娘のステフがその話に興味を持ち、一緒に行ってみたいと言い出す。

もちろんマーカスは大反対するが、やがて難民キャンプは安全だということで、マーカスはレベッカに行ってみたらとうながす。マーカスの理解と柔軟性が発揮されたのだ。二度と紛争地に行かないと約束したからと言って、レベッカが簡単に今までの理想や使命感を捨てられるわけがないことをマーカスはよく理解しているからだ。それにステフも一緒なら危険なことはしないと判断したのかもしれない。

ところが、ケニアの難民キャンプでレベッカとステフは予期しない危険に巻き込まれてしまう。武装集団が難民キャンプを襲撃してきたのだ。しかも、レベッカはその危険のさなかへと飛び込み、その一部始終をカメラに収めようとする。幸い、レベッカもステフも危険から無事に脱することができたが、このことは二人だけの秘密にしようと約束する。

けれども、二人が危険に遭遇したことがマーカスに判明してしまう。危険な場所ではないから送り出したのに、これはいったい何なんだと激怒するマーカス。マーカスはレベッカの釈明に聞き耳を持たず、レベッカに家から出て行くように告げる。

マーカスの怒りも理解できる。二度と危険な紛争地に行かないと約束したのに、また危険に巻き込まれてしまった。その上、娘のステフもその危機のすぐそばにいたとなると、夫であり父親であるマーカスの怒りが爆発することは理解できる。そんなマーカスはあまりの怒りに、レベッカへの理解や共感、そして柔軟な姿勢を失ってしまう。レベッカとマーカスとの関係は修復不可能となってしまうのだ。アフリカでの銃声がアイルランドの家族までをも修復不可能なほどに引き裂いたと言えるだろう。

破壊されなかった信頼関係

家族の中では唯一、長女のステフが母親レベッカの生き方に理解を示していることが、この物語の救いとなると、わたしは考える。

マーカスに家を追い出されたレベッカは翌日、自分の荷物を取りに家に戻る。ちょうどマーカスが下の娘のリサを迎えに行った帰りだったが、マーカスはそっけない態度をとる。レベッカは下校途中のステフに会い、自分の気持ちを伝える。「自分が間違っている」ことはよくわかっているのだということを。

けれども、レベッカは「大人になって自分と向き合ったとき、抑えきれない何かが自分の中に存在していることがわかる」のだということもステフに告げる。レベッカは自分の中で抱える抑えきれない何かに突き動かされ、紛争地での危険に飛び込み、そこにある悲惨さを写真に収めるのだということをステフに伝えるのだ。そう告げられたステフはレベッカのカメラを手に持ち、レベッカにレンズを向けて写真を撮影するようにシャッターを切り続ける。このステフの行為は、何を意味しているのだろうか。

ステフはレベッカが紛争地へ向かい、そこにある悲惨にカメラを向け続けることをやめられないと理解している。そもそもスクラップブックに、レベッカの撮影した写真が使われた新聞や雑誌に記事を保存しているほどだ。それにケニアの難民キャンプでの一件もある。難民キャンプへ行き、危険に見舞われてもレベッカは危険へと向かっていった。どんなことがあってもレベッカは危険へ飛び込みカメラを向ける。それは、レベッカの意思や家族の説得などで抑えられるものではないことも、ステフはちゃんと理解しているのだ。

だから、ステフはレベッカにカメラを向け、シャッターを切り続けることによって、レベッカの紛争地で写真を撮り続ける生き方を理解していると伝えているし、ステフもまたそういう母親を応援していることを伝えているのだと言えるのではないだろうか。

それはアフリカ・プロジェクトという学校の発表会でステフが母親レベッカの写真を使い、ケニアでの体験を発表したことでも裏付けられる。もし、ステフがレベッカのことを理解していなければ、あるいは応援していなければ、そんな発表はしないはずである。

家族は破壊されてしまったが、親子の信頼関係までは完全には破壊されていないことを示す場面だ。そこにこの物語の数少ない救いがあり、そして希望が存在する場面である。

世界の悲惨に想いを馳せ、その悲惨さから目をそらすな

ラストシーンはこの物語の冒頭と同じように、これから自爆テロに向かう人の撮影をするレベッカの姿が映し出される。レベッカが撮影をしているうちに、自爆テロをさせられてしまうのは、まだ大人になっていない少女だと判明する。レベッカの娘ステフと変わらないくらいの年齢のようにも見える少女だ。少女の体にはいくつものダイナマイトが巻きつけられ、その手には起爆装置のスイッチが持たされる。レベッカはそんな少女を撮影しながら、いたたまれなくなってしまう。

自爆する場所へ向かう車に乗せられた少女の姿を見送るレベッカの隣で、後ろ向きで地面に膝をついて泣き崩れている女性の姿が印象的である。その女性の後ろ姿を見ていると、おそらくはこれから自爆テロをさせられる少女の母親なのかもしれないと思わせる。レベッカも現実に耐えきれないかのように、その女性の傍らで崩れ落ちるように地面に膝をつく。このような無力感と絶望感に打ちひしがれたふたりの女性の姿で、この物語は幕を閉じる。

この場面の直前はレベッカとステフの関係から、わずかな救いや希望を見出せる場面だったが、この場面の無力感や絶望感は、そこで抱いた救いや希望を打ち消すかのような悲惨な場面だ。なぜ、この絶望的とも言える場面がこの物語のラストシーンとなったのだろう。

いくつもの可能性が考えられる。けれども、答えはひとつではないはずだ。

レベッカの家族を引き裂いたのは、世界に悲惨な出来事が数多く存在するからだし、そんなレベッカが家族の元に戻れるとすれば、世界の悲惨さがなくなったあとのことになるだろう。けれども、世界から悲惨さがなくなることは本当に実現できるのだろうか?

あるいは、紛争地の悲惨さや悲劇はわたしたちと無関係ではなく、むしろわたしたちとつながっていることをここで示しているからだと言えるのではないだろうか? たとえば、自爆テロの実行犯に選ばれてしまった女性や少女の家族も引き裂いて崩壊させてしまう。それはケニアでの難民キャンプにいた難民の家族たち、各地の紛争やテロで犠牲になった人たちも同じであるからだ。

銃弾や爆弾で家族が破壊されてしまう物語。それは見捨てられた土地だけの問題ではない。ケニアでの銃声がレベッカの家族の崩壊を引き起こしたように、一見、平和に見えるわたしたちの暮らす土地と地続きの問題でもあると提起しているのではないだろうか?

そんなふうに、この物語の最後のシーンは、わたしたちの心に引っかき傷のような余韻を残す。その引っかき傷がわたしたちにさまざまな思いを思い起こさせ、さまざまなことを想像させる。そのことが、この物語に込められたメッセージそのものなのかもしれない。世界にはさまざまな悲惨さが存在する。そこに想いを馳せ、悲惨さから目をそらすなとのメッセージだ。

映画の概要・受賞歴など

映画『おやすみなさいを言いたくて』は、2013年のノルウェーアイルランドスウェーデン制作の作品。監督はエリック・ポッペ。この作品は、2013年の第37回モントリーオール世界映画祭で審査員特別グランプリを受賞している。

原題は”A Thousand Times Good Night”。直訳すれば「何千回ものおやすみを」ということになるだろう。元々は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の中で語られる愛の言葉だそうだ。

邦題の『おやすみなさいを言いたくて』というタイトルも、映画の内容の本質を言い表しているが、原題の「何千回のおやすみを」という方も良い。家族が、そして親子が何千回もおやすみを言えることが平和であり、この物語の主人公レベッカはその平和を実現するために、できることを誇りを持ってやっている、みたいな意味も込められているのだろう。

参考リンク

1)Yahoo!映画/『おやすみなさいを言いたくて』
movies.yahoo.co.jp

2)映画.com/『おやすみなさいを言いたくて』
eiga.com

3)Filmarks/『おやすみなさいを言いたくて』
filmarks.com


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