誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

親指をしゃぶる自分を飾らずに世界にさらせ/『サムサッカー』

親指をしゃぶる自分を飾らずに世界にさらせ/『サムサッカー』:目次

じんわりとしたさわやかさをもたらす物語

映画『サムサッカー』は、十七歳の少年ジャスティンの青春を描く物語。ジャスティンは常に自分に苛立ち、そんな自分を良い方向に変えたいともがいている。ありのままの自分が、自身の力で未来をつかみとることの大切さを描く物語とも言えるだろう。

主人公のジャスティンは、親指をしゃぶる癖が抜けない17歳の高校生。あるときジャスティンは歯医者のペリー先生からあやしげな催眠術をかけられる。親指をしゃぶる癖は治ったものの、今度は極端な行動に走ってしまい、ADHD注意欠陥多動性障害)と診断される。そこで投薬をはじめたジャスティンは次第に活動的にあり、弁論クラブの地区大会で優勝するほどの活躍を見せるようになるが……、というストーリーだ。

わたしはこの物語をそれほど期待しないで観たのだが、ジャスティンが自分を変えたいと必死にもがいている姿を、気がつけば見守るような気持ちで観ていた。17歳の高校生だからこその不安と悩みにとらわれ、そして自己愛に満ちたジャスティンの姿は、かつて17歳だったわたしたちの姿でもあるからだろう。

わたしはどちらかといえばジャスティンの両親や先生に近い方の年齢なので、思わずジャスティンの危うさをハラハラしながら、そっちの方向に進むなと思いながら観ていた。その一方で、ジャスティンもまた傷つきながら、あるべき方向へ必死に舵取りをする姿を観ながら、これなら大丈夫な方向に進むかもしれないと思ったのもたしかだ。

他人から見ればそこまで深刻ではないが、でも本人たちにとっては深刻な問題を抱えながらも、未来に向かってどのように生きるか悩みながら前へともがくように進むジャスティンの姿が、最後にじんわりとしたさわやかさをもたらす物語である。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

ただ、親指をしゃぶる癖が抜けないだけ

この物語の主人公であるジャスティンは、あるべき本当の姿というものを求めながら、あちらで転んで、こちらにぶつかるという危なげな高校生活を送っている。だから、そんな自分に苛立ち、周囲の大人に怒りをぶつけ、偏狭な自己愛にとらわれている。ただし、性格が極端であるというわけではない。ときに極端な言動をすることがあっても、それは17歳という若い人間に特有のものでもあり、ジャスティンがことさら特殊であるというわけではない。

そんなジャスティンは弁論部のメンバーであるレベッカに恋をして、ニューヨークの大学に進み、ニュースキャスターになるという自分の将来を夢みる高校生だ。けれど、ジャスティンの成績は志望する大学のレベルには届かないくらいの位置にある。それでも、自分の夢見る未来に向かってもがきながらも進んでゆく。

ジャスティンは性格的にはどちらかと言えば内向的で、スポーツのように体を動かすようなことはない。しかし、もともと弁論クラブに入っている上に、投薬治療のせいもあって、周囲の生徒とも普通に楽しく過ごせる生徒でもある。ただ、親指をしゃぶる癖がいつまでも抜けないというだけなのだ。

だから、この物語の主人公ジャスティンは、平凡で普通の高校生だと言えるだろう。わたしたちが自分を重ねる部分もいくつもある。大人になったわたしたちもまた、かつて17歳だった自分に、こんなところがあったなあと懐かしさと気恥ずかしさみたいなものを、ジャスティンの言動に重ね合わせることができるのだ。

ジャスティンを取り巻く普通の平凡な大人たち

ジャスティンを取り巻く大人たちも、いたって平凡で普通の人々だ。父親は元フットボールの選手で、プロ入りすることも考えていたが、ケガのせいでその夢が断たれ、今ではスポーツ用品店の店長をしている。母親はミーハーなところがある看護師だ。有名スターやセレブたちの依存症施設に、自分の好きなスターが来るというニュースを聞き、その施設の面接を受けに行くほどでもある。

でも、ジャスティンの両親は真面目であり平凡である。父親はいつまでも親指をしゃぶる癖の抜けないジャスティンに厳しいが、それは自分が元スポーツマンだからというところからくるものである。母親はどちらかと言えばジャスティンに甘いが、それも母親だから当然のものでもある。もちろん、ジャスティンの両親にまったく問題や欠点がないわけではないが、家庭を破滅させるような深刻な問題や欠点ではない。わたしたちが抱えているような問題や欠点となんら変わらない程度のものだ。

さて、ジャスティンには小学生くらいの弟がいるが、これが少々ませた子どもである。精神年齢はジャスティンよりも上のように見えるが、それも必死に背伸びして兄を追い越そうとしているようにも見える。この弟もそれほど深刻な問題を抱えているわけでもなく、多少背伸びをしている平凡な子どもであると言えるだろう。

ジャスティンの通う高校の弁論クラブの顧問の先生も、取り立てて問題のある先生ではない。見た目こそさえない平凡な高校教師だが、弁論クラブの活動を見守る先生だ。弁論クラブのメンバーは当然みんな高校生だが、地区大会の本番前日の夜に生徒たちがビールを要求しても、ジャスティンがいるのならということであっさりビールを差し入れしてくれるような、柔軟性のある先生だ。

ジャスティンの通う歯科医のペリー先生は、はじめのうちこそあやしげな催眠術をかけたり、あやしげな心理学の講釈を聞かせたりと、患者のジャスティンを困惑させる。しかし、やがてそれも間違いだったと自ら認め、最後にはジャスティンにやさしいはなむけの言葉をかける人物となる。

これほど平凡で普通の人たちが主人公のジャスティンを取り巻いている。それはすなわち、この物語はわたしたちの物語でもあるという見方もできるだろう。それなりに問題や欠点を抱えながら、同時にすごい才能や頭脳や技能を持っているわけでもない平凡で普通なわたしたちと、この物語の登場人物たちは同じ地平に立っているということを示しているのだ。

ありのままの自分を飾らずに世界にさらすこと

この物語のテーマは、ひとまず「依存」であるとも言えるだろう。ジャスティンは自分の親指をしゃぶることに依存しているし、父親は自分の過去に依存している。母親は麻薬に溺れたスターに依存しているし、歯医者はあやしげな催眠術や心理学に依存している。

でも、見方を変えれば、この物語で描かれる「依存」とは、「その人にとってなくてはならないもの」であり、もっと言えば「その人がその人であることを支えるもの」、すなわち「アイデンティティ」でもあると言えるのかもしれない。

だから、親指をしゃぶることをやめたジャスティンが、けっきょくは再び親指をしゃぶる癖をやめないのも、そうすることで自分はかけがえのない自分自身であるのだと世界に宣言する行為なのではないだろうか。

たとえ親指をしゃぶることが幼稚で未熟な子どもの行為に見えたとしても、ありのままの自分を飾らずに世界にさらすこと、ありのままの自分を受け入れることの方が大事なのだというメッセージを、この物語は発しているのだ。

その意味で、映画『サムサッカー』は、ありのままの自分を受け入れることを伝える物語だとも言えるだろう。そんな飾らないありのままの自分を世界は優しく受け入れるのだと、この物語のラストシーンは示している。だから、最後にじんわりとしたさわやかさを、わたしたちは感じることができるのだ。

映画の概要・受賞歴など

映画『サムサッカー』は、2005年制作のアメリカ映画。原題は”Thumbsucker”、「親指をしゃぶる癖」や「親指を吸う癖のある幼児」を意味する単語。

なお、日本版には『17歳、フツーに心配な僕のミライ』とのサブタイトルがつけられているが、この部分は蛇足というか、せっかくサブタイトルをつけるのなら、もう少しなんとかならなかったのかという残念さしか感じられない。

さて、この物語の中で、主人公のジャスティンはADHD注意欠陥多動性障害)と診断されるが、途中で投薬治療をやめている。この作品は自分の力でありのままの自分を取り戻す物語なので、投薬治療をやめる場面は映画的な表現として必要な場面なのだろう。

けれども、現実的には投薬治療を自分の意思でやめてはいけないだろう。診断や投薬治療の開始、あるいは停止など、必ず医師や医療機関と相談することが必要だということは言うまでもない。

参考リンク

1)Yahoo!映画/『サムサッカー
movies.yahoo.co.jp

2)映画.com/『サムサッカー
eiga.com

3)Filmarks/『サムサッカー
filmarks.com


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『誤読と曲解の映画日記』管理人:のび
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