誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

もう二度と取り戻せないであろうものを描く物語/『ゴスフォード・パーク』

もう二度と取り戻せないであろうものを描く物語/『ゴスフォード・パーク』:目次

もう二度と取り戻せないであろうものを描く物語

映画『ゴスフォード・パーク』は、消え去りゆく”貴族”の姿を描き出した物語。1932年秋のイギリス、貴族の邸宅「ゴスフォード・パーク」を舞台にした貴族たち、その使用人たちの人間模様を、ある殺人事件にからませて描く物語である。

この「ゴスフォード・パーク」でハンティング・パーティーが開かれるために人々が集うところからこの物語ははじまる。「ゴスフォード・パーク」の持ち主は貴族のウィリアム・マッコードル。ウィリアムの妻シルヴィアの叔母トレンサム伯爵夫人、シルヴィアの二人の妹夫婦、ウィリアムの親戚であるアメリカの俳優やその友人たちが、それぞれの使用人たちとともに「ゴスフォード・パーク」へとやってくる。

貴族たちや使用人たちが織りなす人間関係の多くは良好なものではない。険悪さや冷酷さ、自己愛や保身に満ち、そこへいくつかの思惑がからまり、それからわずかながらの親切心がある。そこへ殺人事件が起こることで、あらゆる思惑が明らかになり、隠されていたさまざまな真実が明るみに出る。

時代背景としては第一次世界大戦後のイギリスであり、その当時はイギリス貴族階級が衰退していった時期であるという。たしかにこの物語の最後は「ゴスフォード・パーク」に集った人々が去ってゆく様子を描きながら、何かが終わることを感じさせるようなしめやかな終わり方となっている。殺人による貴族の死を描き、その周囲の人々の抱えるものをあぶり出すことで、もう二度と取り戻せないであろうものを、わたしたちの心に郷愁とともに感じさせるのだ。

ただ、映画作品としてみると、前半はやや退屈に感じてしまうのも否めない。それは物語自体がほとんど動かない一方で、人間関係の把握や整理の情報処理に追われるからだ。ならば、前半部分で登場人物たちの背景をより深く示すことだってできたはずである。そうすれば、もう少し作品や人物にのめり込むことができたと思うし、物語が終わったあとの貴族階級の衰退や使用人の今後の人生を思わず想像してしまうような余韻も、より深い味わいになっただろう。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

その消滅は避けられない

ゴスフォード・パーク」の持ち主はウィリアム・マッコードルなる貴族だ。尊大で怒りっぽい人物で、妻シルヴィアとの関係も冷え切っているようである。ただ、莫大な財産があるようで、シルヴィアの叔母のトレンサム伯爵夫人や妹ラヴィニアの夫アンソニーへ金銭面での援助をしているが、ウィリアムは今まさにその援助を打ち切ろうとしている。

そのため、トレンサム伯爵夫人やアンソニーは「ゴスフォード・パーク」で行われるハンティング・パーティーの場を利用して、援助を継続するようにウィリアムに頼むが、ウィリアムは援助を打ち切ろうと決めている。さらには、マッコードル家に仕えるメイドのエルシーがウィリアムの愛人であることが判明し、ウィリアムとシルヴィアは激しく言い争う。

このようにウィリアム・マッコードルという人物は、家族や親戚とのあいだに親密であたたかな交流を持っていない。それはウィリアムのみならず、この物語に登場する貴族たちのあいだでも同じであり、そこにも家族や親戚といった肉親のつながりが生み出す、親密さやあたたかみといったものは感じられない。この物語に登場する貴族たちは、金の援助とその嘆願でつながっているような人間関係なのである。

そのような冷え切った人間関係を前半で見せつけられたあとに、この物語の最大の事件であるウィリアムの殺害事件が起こってしまう。ウィリアムを殺す動機を持つ人物たちだらけの中、ウィリアムの抱えた闇の部分が徐々に明らかになり、事件の核心も明らかになってゆく。ここではウィリアム・マッコードルなる人物が邪悪な人間として描かれているのだ。なるほど、こんな人物ならば殺されてしまうのもわからなくはないとの説得力はある。

ウィリアムなる人物は、何を象徴しているのだろうか? ウィリアムの死そのものが貴族階級そのものの避けられない消滅を象徴しているのだろうし、ウィリアムという人物像や彼を囲む人物たちとの関係の描き方も、人々が貴族階級へ向けたまなざしを象徴しているのかもしれない。いずれにせよ、その消滅は避けられないものとして、ウィリアムは描かれているのだ。

わずかな希望のようなもの

貴族たち同士の関係に親密であたたかなものが希薄であるのと同じく、貴族たちと使用人たち、さらには使用人同士の関係もまた冷え冷えとしたものを感じる。そもそもウィリアムに対する、使用人たちからの尊敬の念や敬愛の情みたいなものも希薄である。たとえば、マッコードル家の執事ジェニングスやウィリアムの従者であるプロバートからですら、内心ではウィリアムを軽蔑しているように、その振る舞いからも感じられるのだ。

このように使用人たちはウィリアムをはじめとする自分が仕える貴族に尊敬の念や敬愛の情みたいなものがひどく希薄なのである。それはたとえば、食事の用意をするときの食器の準備の場面にも端的にあらわれているだろう。また、使用人同士の関係も必ずしもすべてが良好ではない。マッコードル家に仕える家政婦長ミセス・ウィルソンと料理長ミセス・クロフトが深く対立している。そのために、しばしば使用人たちのあいだに緊張が走る。

そんな中で登場する、この物語の主人公であるとも言えるメアリー・マキーシュランの存在が、この物語の中で唯一と言っていいほどの闇の中の光とも言える存在である。メアリーはウィリアム・マッコードルの妻シルビアの叔母であるコンスタンス・トレンサム伯爵夫人の侍女として、伯爵夫人とともに「ゴスフォード・パーク」にやってくる。

メアリーとトレンサム伯爵夫人との関係は心のこもったものだし、「ゴスフォード・パーク」に滞在中、同室になるマッコードル家のメイドのエルシーともあたたかな交流を繰り広げる。だからこそ、マッコードル家のメイドをクビになったエルシーが最後にはメアリーの見送りを受けることで、わたしたちはその前途に希望を持てるのだ。エルシーの旅立ちは貴族階級の衰退とは逆に、使用人たち労働者階級の今後が少しずつ明るいものになることを予感させるものになっている。

映画『ゴスフォート・パーク』は、悲惨な事件の起こる中で、貴族階級の衰退を浮き彫りにしてしまうが、このメアリーとエルシーの交流によって、わずかな希望が見出せる物語だとも言えるだろう。

映画の概要・受賞歴など

映画『ゴスフォート・パーク』は2001年イギリス制作の映画。監督はロバート・アルトマン。脚本のジュリアン・フェロウズは、テレビドラマ『ダウントン・アビー』シリーズでも有名。なお、この作品でジュリアン・フェロウズはアカデミー賞脚本賞を受賞した。

ジュリアン・フェロウズの描くイギリスの貴族とその使用人たちの物語ということで、『ダウントン・アビー』を彷彿とさせる設定だが、制作はこちらの方が先である。また、『ダウントン』に比べると、『ゴスフォード』の方が作品全体に冷たい雰囲気が流れている。

参考リンク

1)Yahoo!映画/『ゴスフォード・パーク
movies.yahoo.co.jp

2)映画.com/『ゴスフォード・パーク
eiga.com

3)Filmarks/『ゴスフォード・パーク
filmarks.com


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