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誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

意図せざる悪と代償/『トゥルー・グリット』

映画日記

単なる西部劇映画としても楽しめるが…...

主人公は父親を殺された14歳の少女マティ。マティは頭の回転がとても速くて、行動力も度胸もある少女。そんなマティは父親を殺して逃亡した犯人チェイニーを捕まえるために、真の勇気を持つと評判だが飲んだくれの保安官コグバーンを雇う。そこに、お尋ね者のネッド一味を追うテキサスレンジャーのラビーフも加わる。チェイニーはネッド一味に加わっているからだ。3人はそれぞれの敵を捕らえるため、荒野へと馬を走らせる……。

もともとは、1969年の西部劇『勇気ある追跡』をリメイクしたもの。なお、この作品には同名の原作小説がある(わたしは1969年版未視聴、原作小説は未読)。

ストーリー自体はシンプルで、悪党を追跡する中、状況が二転三転。復讐や追跡の過程を楽しむ西部劇映画としても楽しめるが、この映画は単なる西部劇というカテゴリーにとどまらないものがある。単純な勧善懲悪の物語によくあるパターンのような、憎い敵が最後にやられて、観客もスカッと爽快な気分でめでたしめでたし、という物語ではない。

なぜならば、『トゥルー・グリット』は「たとえ意図せずに悪であったとしても、結果としてその代償は支払わなければならない」ということを伝える映画ではないかということを考えたからだ。

単に父親を殺した犯人を探し出し、捕まえるなり殺すなりして復讐が果たされたのなら、そこで物語はひとつのハッピーエンドを迎えるはずだ。けれど、本作ではそれ以降にマティが毒ヘビに咬まれ、その命を救うためにコグバーンが馬で荒野を駆けるシーンがそのあとに続く。物語をハッピーエンドで終わらせることもできたのに、なぜそのあとのシーンが描かれているのだろうか?


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

いささか多くの血が流されすぎた

父親を殺されたマティは、犯人のチェイニーを捕まえ、町で裁判にかけて縛り首にすることを望んでいる。そこで保安官のコグバーンを雇い、犯人が逃げ込んだ荒野へと馬を走らせる。チェイニーが加わった悪党のネッド一味を追うテキサスレンジャーのラビーフも合流したり離れたりを繰り返しながら、荒野の中で追跡劇を展開する。

そんな追跡の中で、マティ、コグバーン、ラビーフは意図せずに悪を犯してしまう。意図せざる悪。それは本来なら不必要だったかもしれないはずの殺人である。

たとえば、荒野の中に建つ小屋にやってくるネッド一味を、離れた場所から狙い撃ちしようとする場面。ネッド一味がやってくる直前にラビーフが小屋に立ち寄ってしまい、ネッド一味とばったり会ってしまう。ラビーフとネッド一味は銃撃戦になるが、コグバーンもラビーフを救うために銃を撃つ。結果、一味のうちの何人かが命を落とす。大量の血を流しながら。

その小屋で一晩を明かした3人は、翌朝その小屋を後にする。その小屋の中にいた連絡役のふたりも、前夜の銃撃戦の前にコグバーンによって殺されていた。血にまみれた小屋だ。朝になり小屋を去るとき、マティは小屋の外に置いたままの悪党たちの死体を振り返りながら立ち去る。まるで、自分のせいでそうなってしまったことに後味の悪さを感じているかのように。

また、物語の最後、コグバーンやラビーフがチェイニーやネッド一味を撃ち殺したあと、マティは自らが撃った銃の反動で、暗くて深い穴の中へと転落してしまう。穴倉に落ちてしまったマティは、脱出を試みながらも失敗、ようやくコグバーンが穴の中へと助けにきたときには、すでに毒ヘビに噛まれてしまったあとだった。

なんとかマティを引き上げた保安官は馬で医者の元へと走りはじめる。毒が回って死んでしまわないように。マティは馬に乗せられたまま、荒野に転がる悪党たちの死体に目を向けながら、その場を去る。やはり、いくつもの死体が転がっている光景に、本当にこれでよかったのだろうかと自問自答するように。

これらのシーンで、マティは父親を殺した犯人を捕らえることをコグバーンに依頼したばかりに、自分のせいでたくさんの血が流れたことを後悔しているようにも見える。たとえ相手が父親を殺した犯人であったとしても。それにもともとマティの希望は、父親を殺した犯人を捕まえて、街で裁いたのちに縛り首にすることだった。

そんなマティの希望からすると、追跡劇の中でいささか多くの血が流されすぎた。それはマティの意図せざるものであったが、その代償はマティ自信が支払わなければならないように、運命づけられてしまう。犯人たちを撃ち殺してしまったあと、マティが毒ヘビに噛まれてしまうシーンを必要としたのは、意図せざる悪と代償というテーマを観客に突きつけるためだからだろう。

意図せざる悪と代償

25年後、大人になったマティは片腕がない。暗い穴の底に転がり落ちたときに毒ヘビに噛まれたせいで、腕を切断してしまったからだ。それに25年後のマティからは、少女だった頃の利発さといったものが表情から消えているようにも見えた。それはこの追跡と復讐の中で犯してしまった悪への代償ではなかっただろうか?

マティも保安官もラビーフも、この追跡劇の中では自身が積極的に悪を為したわけではない。マティの父親を殺した犯人を捕まえるため、自分たちの身を守るためにやれることをやっただけだ。しかし、その過程であまりにも多くの必要以上の血が流れてしまった。それは果たして仕方ないと正当化されることだったのか?

マティが一命を取り戻したあと、信頼できる仲間となった保安官にもラビーフにも一生会えなかったのも、多すぎる血が流れたことへの代償だ。それに加え、マティを病院に運ぶために荒野を走った馬を失ったこともそうだろう。その馬はマティが物語の冒頭で購入し、ともに荒野を駆けめぐったもうひとりの大切な仲間だ。

そもそも、コグバーンも片目を失っている。これは過去に何人もの(二十数人ほどと作中で口にする場面がある)人々を殺してきた過去がある。コグバーンが片目を失ったのは、過去の多数の殺しに対する代償とも考えることができる。はじめからコグバーンが片目を失っ他姿で登場するのは、やがて片腕を失ってしまうマティの運命を予言するものなのかもしれない。

トゥルー・グリット』は西部劇という形式をまとっているが、意図せざる悪と代償について考えさせられる映画と言える。

意図せざる悪と代償というテーマは今日のわたしたちにも通じる話だ。何かの復讐のためでなくても、わたしたちは悪いものを懲らしめようと意図せずして悪を犯していることだってあるだろう。本作は、悪い奴を痛めつけてスカッと爽快な気分を得る、という勧善懲悪的な世界観を抱えている人に、本当にそんな単純な世界観を抱えていていいですか? と問いかけている。そして善をなそうと悪を懲らしめる側が、実は意図せずに何らかの悪を犯していることだってありますよね、と問いかけている。

映画『トゥルー・グリット』は、勧善懲悪的な世界観に異議を突きつけてもいるのだ。

参考

1)Yahoo!映画/『トゥルー・グリット
movies.yahoo.co.jp

2)映画.com/『トゥルー・グリット
eiga.com

3)Filmarks/『トゥルー・グリット
filmarks.com


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