飛び出す映画についてのエトセトラ
飛び出す映画についてのエトセトラ:目次
最近、twitterで飛び出す映画について書いたので、こちらのブログにも加筆することにしました。
そして、「ほしい物リスト」から本が届きましたので、お礼とご報告です。
VR、3D映画、そして立体映画
最近、VRが話題になっていますね。VR専用のゴーグルをかけて、VR専用の映像を見ると、立体感・臨場感たっぷりに、映像の世界がまるで現実に現れたかのように、その映像が見える(感じられる、と言った方が適切かな)というものです。
わたしは、まだVRを試したことがないので(なにせスマートフォンを持っていないため。モバイル端末は、ガラケーとiPad mini4を併用しています)、どのようなものか実感としてはわかりませんが。
しばらく前から3D映画も映画館で上映されるようになりました。こちらの3D映画も、わたしはまだ実際に観たことがないんですが、登場した頃は話題になったことを覚えています。まだ3D映画を見たことがないのは、わたしの住んでいる県には、まだ3D映画を上映できる映画館がないからという、地理的な理由です。
その流れで思い出したのですが、子どもの頃に立体映画を観た記憶があります。立体映画とは、特殊なゴーグルをかけて映画を観ると、その映像が立体的に飛び出して見えるという、今でいう3D映画の先駆けとなったものです。
映像が立体的に見えるといえば、子どもの頃にオバケのQ太郎の映画で立体映画を観たことがある。ゴーグルの左右のレンズに青と赤のフィルムが貼ってあって、それをサングラスみたいにかけてスクリーンをみるとあら不思議! 映像が飛び出して見えて迫力満点! という映画。
— のび (@nobitter73) June 2, 2017
もう二度と観ることのない映画/2017年5月のまとめ
『誤読と曲解の映画日記』/2017年5月のまとめ:目次
もう二度と観ることのない映画
「もう二度と観ることのないだろうなあ」という映画があります。わたしにとってのそんな映画は、『リリィシュシュのすべて』でしょうか。もう10年以上も昔に見た映画ですが、とにかく映画を観ながら心がバキバキにへし折られたことを覚えています。
もちろん、映画作品として内容がつまらないとか、そういう理由ではなくて、むしろその内容からあふれ出る重くて鬱屈したものに耐えきれないくらい心が重くなるほどだった、みたいな感じでしょうか。
そのために、再び心がへし折られるのが耐えられないから、二度と観ることはないのだろうなあということです。映画作品として、ここまで誰かの心に影響を及ぼすとしたら、その作品の完成度は大成功と言えるのではないでしょうか。
もちろん、内容が重くて観るのがつらいなあ、再び観るのはきついなあ、という映画はいくつかありますが、よく考えてみればそういった映画作品は、人々の心に深い印象をずっと与えることができているという意味で、やはり作品としてひとつの成功なのでしょうね。
考えてみれば、内容がつまらなかったとか、理解できなかったとか、何の印象も残らなかったとか、そういう映画作品だったら、そもそもはじめから「もう二度と観ることのないだろうなあ」とも思わないでしょうし。
それでは、『誤読と曲解の映画日記』今月のまとめをどうぞ。
喜びのために生きよう! 踊って歌うために!/『ジミー、野を駆ける伝説』
喜びのために生きよう! 踊って歌うために!/『ジミー、野を駆ける伝説』:目次
- 束の間の自由さえ抑圧されてゆく
- 歌とダンスは自由の象徴
- そこでなら誰もが善良になる
- 喜びのために生きよう! 踊って歌うために!
- 自由を求めて野を駆ける
- 映画の概要・受賞歴など
- 参考リンク
束の間の自由さえ抑圧されてゆく
映画『ジミー、野を駆ける伝説』は、自由の大切さや自由を追い求めることの尊さを描いた物語。自由がけっして当たり前のものではなかった時代に、自由を求める主人公ジミー・グラルトンの活動と、それを抑えようとする人々との対立を描く。
1932年、10年ぶりに祖国アイルランドに戻ってきた元活動家のジミー・グラルトン。一度はアメリカへ国外追放されたジミーは、再びニューヨークからアイルランドにある故郷の村へと帰ってくる。かつては人々から絶大な信頼を集めたジミー、その帰郷を仲間たちに歓迎される。かつての村の仲間たちは、ジミーのところに駆け寄り、昔のように「ホール」を再開して欲しいと頼む。
けれども、ジミーは仲間たちの願いを断ってしまう。ジミーは年老いた母親と一緒に、ひっそりと静かに畑を耕して生きていきたいと願っているからだ。細々と畑を耕していたジミーは、仲間たちの熱意に押され、ついに「ホール」を再開させるが、そのことを面白く思わない人々との争いを招くことになる…...。
この映画の背景には、アイルランド内戦後の社会構造の問題が大きく横たわっている。つまり、地主や教会といった支配者層による、農民や労働者といった被支配者層の支配と抑圧、といった構造だ。言うまでもなく、主人公のジミーや彼の仲間たちは、農民や労働者の側に立つ。
けれども、ジミーや村の仲間たちは自由を求めて積極的に対立を煽ったり、支配に反抗したりするわけではない。むしろ、支配や抑圧の合間に喜びや楽しみを求め、あるいは仲間たちと学び合う場として、ジミーのつくった「ホール」は機能する。しかし、その束の間の自由でさえも、支配者層からは目障りなものとしてとらえられてしまう。
※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。
無心の赤ちゃんが大人たちの愚かさや未熟さを浮かび上がる/『赤ちゃん泥棒』
無心の赤ちゃんが大人たちの愚かさや未熟さを浮かび上がる/『赤ちゃん泥棒』:目次
- 愚かしいことに身を委ねてしまわないとたどり着かない場所
- エドを縛り付けていた鎖
- 完全な悪には染まっていない人間
- 愚かさや未熟さを抱えた自分と決別
- 映画の概要・受賞歴など
- 参考リンク
愚かしいことに身を委ねてしまわないとたどり着かない場所
映画『赤ちゃん泥棒』は、盗み出した赤ちゃんをめぐるドタバタ喜劇。他人の赤ちゃんを盗み出し、育てるつもりだった赤ちゃん泥棒の夫婦は、物語の終わりに成長する。まるで、赤ちゃんに育てられたみたいに。無心の赤ちゃんが大人たちの愚かさや未熟さを浮かび上がる物語だと言える。
アリゾナ州に住むハイとエドの夫婦は、家具チェーン店を経営する金持ちのネイサン・アリゾナ夫婦に五つ子が生まれたことを知る。子どもが望めない妻のエドは、どうしても赤ちゃんが欲しいと願うが、養子を迎えることもできなかった。そこで、五つ子のひとりを盗み出して、自分で育てることを企てる。
ところがそこへ、夫ハイのかつての刑務所仲間のゲイルとエヴィルが、刑務所を脱獄してやってくる。また、賞金稼ぎのスモールスも、赤ちゃんの行方を追ってくる。事態は思わぬ方向へ転がってゆく……、というストーリー。
人間は時として愚かしいことに身を委ねてしまう。それは人間が愚かさや未熟さを抱えているからだろう。しかし、人間は愚かしいことに身を委ねてしまわないと気づかない類のものごとがあるし、それをくぐり抜けないことには成長もない。そのようなことが、この物語のメッセージなのかもしれない。
もちろん、赤ちゃん泥棒や強盗といった犯罪行為に手を染めないに越したことはないだろう。でも、犯罪にまで至らなくとも、わたしたちは時として愚かしいことをしでかしてしまう存在なのである。
繰り返しになるが、この物語はわたしたちに、人間は愚かしいことをしでかしてしまわないと気づかない類のものごとがあるし、それをくぐり抜けないことには成長もないのだと、寓話的にメッセージを伝えている。この物語では、そういたことを無心の赤ちゃんという存在が、愚かで未熟な大人たちを浮かび上げるのだ。
※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。