誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

ハッピーエンドとバッドエンドが交錯する物語/『ブロードウェイと銃弾』

ハッピーエンドとバッドエンドが交錯する物語/『ブロードウェイと銃弾』:目次

本物のアーティストとは

映画『ブロードウェイと銃弾』は、本物のアーティストとは何か? を問う物語。ここでのアーティストとは、芸術家と言い換えることもできる。この記事では、作中に使われた「アーティスト」という言葉を「芸術家」の意味で使う。

若手劇作家のデイヴィッドに、プロデューサーのマルクスがようやく出資者を見つけてくるところから物語は幕を上げる。ところが、この出資者はマフィアのボスで、ボスは自分の愛人であるオリーブをこの舞台に出演させるように要求する。

オリーブは舞台で踊るダンサーだったが演技経験はない。だから、オリーブの演技力は素人同然の演技レベルでしかなく、その上なぜか甲高いキンキンした声でしゃべるのが耳障りである。マフィアのボスが愛人のオリーブの出演を要求したのは、やがて大女優になりたいとのオリーブの願いを叶えてやりたいと思ったからだ。

けれども、演技の酷いオリーブを出演させるなどの要求にうんざりしたデイヴィッドは、マフィアのボスからの出資を断ろうとするが、プロデューサーのマルクスからは、現実には妥協が必要なのだと説き伏せられ、しぶしぶながらその要求を飲んでしまう……。『ブロードウェイと銃弾』は、そんなところからはじまる物語。

そもそもはじめから、まともなスポンサーを得られなかったところが、デイヴィッドにそれほどの才能がなかったことを示しているのかもしれない。もちろん、良い作品を書けば、必ず良質なスポンサーが見つかるとは限らないけれども。けれども、マフィアしかスポンサーを得られなかったところが、物語の行方、デイヴィッドの行方を暗示しているようでもある。
Nashville Broadway


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

柔軟性とそれを受け入れる勇気を持つこと

マフィアのボスからの支援によって、デイヴィッドの書いた演劇が開幕に向けて走りはじめる。さっそく配役も決定し、開演に向けての稽古がはじまるが、今度はデイヴィッドの脚本に、ケチをつける人物が現れる。オリーブの用心棒チーチだ。チーチはマフィアのボスがオリーブにつけた用心棒のチンピラである。

オリーブの用心棒であるチーチが、脚本にケチをつけることに苛立っていたデイヴィッド。なにしろ、デイヴィッドは劇作家であり、チーチはマフィアの一員でしかない。デイヴィッドにも劇作家としてのプライドがある。けれども、チーチは、この場合ならこうした方が良いと、デイヴィッドにはっきり言うのだ。そんなチーチに腹を立て、デイヴィッドはチーチをIQマイナス50のくせに何がわかると罵る場面もある。

ところが、チーチの提案する「こうした方がもっと脚本が良くなる、ひいては演劇全体が良くなる」というアイデアは的確で、他の役者たちも、チーチの提案に同意するのだ。デイビッドも次第にチーチの言うことが正しいことに気づきはじめ、やがてはチーチのアドバイスをもとにして、せっせと原稿を書き直すまでになる。デイヴィッドは、次第にチーチの劇作家としての才能を認めていく、そしてほのかな友情さえも見出してゆくのだ。

デイヴィッドははじめのうちは自分の脚本に固執していて、他人の指図を受け入れて脚本を修正することに反発を覚えていた。けれども、少しずつチーチの意見に耳を傾け、やがてチーチのアイデアを次々に取り入れていくことになる。デイヴィッドは自らの芸術性に固執することをやめ、現実と妥協していく。

それは柔軟性を持つことだし、そんな柔軟性を持つためには、自分の描く脚本が絶対的なものではないということを認める勇気を持たなければいけない。デイヴィッドには柔軟性と勇気があったのだと言える。そのために自らの書いた脚本に固執することから解放されたデイヴィッド。けれども、今度は逆にチーチの方が、「自分の」完璧な演劇に固執してゆくようになる。

劇作家としての才能が芽生えてきたチーチは、「自分の」脚本の完璧さを求めてゆくようになる。もはやチーチにとっては、自分のアイデアを全面的に受け入れて、大幅に書き換えられたデイヴィッドの脚本は「自分の」ものだという意識さえ芽生えてゆく。

それはやがて、チーチが「自分の」演劇への固執につながる。チーチのアイデアをふんだんに取り入れた脚本は完璧に仕上がった。けれども、実際に舞台で演じられる演劇となると、大きな欠点が目立ってしまう。それはオリーブの存在だ。そもそもが演技など素人同然のオリーブ。演劇は好評を博すが、オリーブの演技はお世辞にも褒められたものではない。

チーチはだんだんオリーブの存在に苛立ちはじめる。この演劇の中で唯一の欠点がオリーブの下手な演技だからだ。次第にチーチは、オリーブのキンキン声にも苛立ちを隠さなくなっていく。やがてチーチの苛立ちが高じてしまい、恐ろしい悪を犯してしまうのだ。オリーブ以外の女優が演じる方が、演劇が完璧になるという理由で。

チーチには柔軟性がなく、そのために現実と妥協できなかった。そして現実を受け入れる勇気もなかった。その柔軟性と勇気の欠落が、チーチを大きな悪に染めたのだろう。

ハッピーエンドとバッドエンドが交錯する物語

では、デイヴィッドがチーチのアイデアに耳を貸さず、自分の脚本に固執していたら、物語の行方はどうなっていただろうか。金と名声を手に入れるためにオリーブを使い続け、芸術家的なプライドのためにチーチのアイデアを排除していたら、どうなっていただろうか?

デイヴィッドは自らの書いた作品をブロードウェイで上演することで、そこそこの成功を収め、そこそこの金と名声を手に入れることができたかもしれない。少なくとも、マフィアのボスが出資してくれた演劇作品に関しては。それでそこそこの金を得て、プライドを保つことはできたかもしれない。

けれども、そもそもデイヴィッドには劇作家としての才能はなかったのだ。早かれ遅かれ才能が枯渇し、劇作家として行き詰まっていただろう。やがて凋落してゆく可能性だって考えられる。

そうであるからこそ、自分には劇作家としての才能が欠けていることに気づき、劇作家としての道をあきらめたデイヴィッドの決断は、彼にとってのハッピーエンドをもたらしたと言えるだろう。普通はもっと痛い目に遭わなければ、それに気づかないだろうし、痛い目に遭っても現実から目を背ける人もいるだろう。この勇気と柔軟性があったからこそ、デイヴィッドは決定的な悲劇や身の破滅を避けることができたのだ。

自分に劇作家としての才能が決定的に欠けているという現実を直視し、その事実を認めたデイヴィッドには勇気と柔軟性がある。そして、この勇気と柔軟性があれば、デイヴィッドのこれからの人生も、それなりに明るい展望が開けるのではないだろうか。そういう意味で、この物語は、デイヴィッドにとってはハッピーエンドを迎えたと言っても良さそうだ。

一方で、「自分の」演劇に固執したチーチが劇作家になっていたら、ということを考えてみたい。

この物語でわたしたちが目撃したように、チーチは「自分の」演劇に固執しすぎるところがある。オリーブの演技に耐えきれなかったチーチは、現実と妥協できなかった。チーチは現実と妥協する柔軟性と勇気を持てなかったのだ。だからチーチは大きな悪に手を染めてしまうのだ。そんなチーチが劇作家として、どこまでやっていけたのかは疑問である。

仮にチーチが自らの才能を発揮して劇作家となっていても、自らの芸術性をどこまで貫き通せたか疑問である。あるいは自らの芸術性を貫き通そうとすることで周囲と衝突し、反発を招いてしまうことだって考えられる。結果として、そのような劇作家として、商業的にやっていけるとは思えない。いずれにせよ、遅かれ早かれ劇作家としてのチーチには、バッドエンドがやってきたことが運命付けられていたのかもしれない。

映画『ブロードウェイと銃弾』は、現実と妥協する柔軟性と勇気を持った才能のない劇作家と、現実と妥協する柔軟性と勇気を持たない劇作家の才能を持ったマフィアが、行き着くべき場所に行き着いた物語だと言えるだろう。だからこの映画の結末は、ハッピーエンドとバッドエンドが交錯する物語だとも言えるだろう。

映画の概要・受賞歴など

映画『ブロードウェイと銃弾』は、1994年のウディ・アレン監督作品。原題は”Bullets Over Broadway”。

この作品にヘレン・シンクレア役で出演したダイアン・ウィーストは、この作品で1995年のアカデミー助演女優賞ゴールデングローブ賞助演女優賞を受賞。また、ウディ・アレン自身もアカデミー賞監督賞、共同で脚本を執筆したダグラス・マクグラスとともに同脚本賞にノミネートされた。

参考リンク

1)Yahoo!映画/『ブロードウェイと銃弾』
movies.yahoo.co.jp

2)映画.com/『ブロードウェイと銃弾』
eiga.com

3)Filmarks/『ブロードウェイと銃弾』
filmarks.com


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