ウイスキーに導かれて/『天使の分け前』
ウイスキーに導かれて/『天使の分け前』:目次
- 後悔にも似た感情を抱いて物語を見つめる
- 仲間と、そしてウイスキーとの出会い
- 罪を抱えたからこそ、一歩ずつ自分の歩むべき道を見定める
- 天使の分け前
- 映画の概要・受賞歴など
- 参考リンク
- 管理人からのお知らせ:更新日の変更について
後悔にも似た感情を抱いて物語を見つめる
映画『天使の分け前』は、それまで自分でも知らなかった自分の才能や可能性に気づき、新たな自分となって人生を再出発する若者を描いた物語だ。しかし、その再出発へ至るまでに、この物語の主人公ロビーは、多くの人々を身体的にも精神的にも深く傷つけ、人生を大きく歪ませたという深い罪を背負っている。
自分の才能や可能性に気づくのは、いつになるのかは誰にもわからない。不幸にして、出会わないこともあるかもしれないし、この物語の主人公ロビーのように取り返しのつかない出来事を起こしてしまったあとかもしれない。
ロビーは深い罪を背負ったあと、人生の針路を決定づけたウイスキーと出会うことによって、自分の人生を立て直してゆく。もちろん、その道のりは一筋縄にいかない。ロビーは過去の悪い仲間からの襲撃を恐れ、自分の犯した行為に苦しみながら、自分の再出発する道を求めていく。
ところで、この物語の舞台は、イギリスのスコットランド。スコッチ・ウイスキーの本場として知られる。この物語のタイトルにもなっている「天使の分け前」という言葉もウイスキーに関連する言葉だ。
ウイスキーを熟成するときには、原酒を樽に入れ、ある程度の期間をかけてじっくりと保管しながら熟成させるが、この熟成のあいだに、年2%の割合で樽に入れた原酒は蒸発してしまう。この減った分が「天使の分け前」と呼ばれているそうだ。
自分の才能や可能性に気づくのがもっと早ければ、こんなことになってしまわなかったのかもしれない。ロビーの行動を見つめながら、わたしたちは後悔にも似た感情を抱く。けれども、上質なウイスキーを生み出すスコットランドの広大な自然とともに、わたしたちは主人公ロビーの再出発をやさしく見守り続けることになる。綺麗事だけではなく、現実的な欠陥や欠落を抱えている登場人物たちだからこそ、胸に沁みる物語だ。
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※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。
映画はある種のタイムカプセル/2017年3月のまとめ
『誤読と曲解の映画日記』/2017年3月のまとめ目次
- 『男はつらいよ』に映し出される半世紀近く昔の風景
- 映画はある種のタイムカプセル
- 『誤読と曲解の映画日記』今月のまとめ
- 管理人からのお知らせ①:更新日の変更について
- 『誤読と曲解の読書日記』今月のまとめ
- 管理人からのお知らせ②:『週刊はてなブログ』で紹介されました
- 管理人からのお知らせ③:Amazonほしい物リスト
『男はつらいよ』に映し出される半世紀近く昔の風景
最近、渥美清主演の『男はつらいよ』シリーズを第1作から順に観ています。1、2週に1本のペースですが、アマゾン・プライム・ビデオにシリーズが入ったのをきっかけに観ています。
『男はつらいよ』のストーリーは、旅から浅草に帰ってきた寅さんがドタバタ騒動を巻き起こす、出会った美女に寅さんがすぐに恋に落ちるけれども、失恋してしまう、というワンパターンといえばワンパターンなストーリーですが、寅さんの口上とストーリーのテンポの良さで、なかなか楽しんでいます。
ところで、この『男はつらいよ』、第1作の公開は1969年8月と、今から約半世紀近くも昔のことなんですね。つまりは、実に半世紀近く前の日本の姿を映像に残していると言っても良い。
だから、そこに映し出される風景や道具が、今の感覚から見るとずいぶんと古いものに見えます。そもそも蒸気機関車が現役で走っているし、黒電話や公衆電話を日常的に使っています。寅さんが旅先から浅草へと掛ける遠距離の電話となると、公衆電話に十円玉をチャリンチャリンと、実にせわしなく投入し続けながら会話をしなきゃいけない。
道路だって、今のように日本の隅々までアスファルトで舗装された道路が走っているわけでもなく、車がスピードを出して走ると、土ぼこりや砂煙がもうもうと立ちこめたりします。
ぱっとしないけれど、シリアスでリアルな日常/『ナポレオン・ダイナマイト』
ぱっとしないけれど、シリアスでリアルな日常/『ナポレオン・ダイナマイト』
- ぱっとしないけれど、シリアスでリアルな日常
- 友達と出会うことから成長ははじまる
- 努力は惜しまず機転を利かせる
- タイムマシンを買って
- 映画の概要・受賞歴など
- 参考リンク
ぱっとしないけれど、シリアスでリアルな日常
映画『ナポレオン・ダイナマイト』は、ぱっとしない田舎のぱっとしない高校生たちの友情を描く物語。よくある安っぽい青春映画のような、さわやかな友情や甘酸っぱい恋愛で彩られた、ある意味では”理想化”された青春とは対極にある高校生たちの日常生活を本作は描き出す。
物語の序盤から前半にかけては、ぱっとしない田舎でぱっとしない主人公ナポレオン・ダイナマイトの送る、ぱっとしない日常生活に痛々しささえ感じる。そこにはナポレオンの、いささかぱっとしない見た目と、そして言動にある不可解さや不器用さがもたらす痛々しさが、わたしたちをいたたまれない気持ちにさせるからだ。これはこんなイタい奴が動き回るだけの映画なのか? 果たして、この映画はこのままイタいだけの話に終始するのだろうか? そんな不安さえも感じてしまう。
けれど、そんな痛々しさや不安も、物語が半分あたりを迎えたときに、どこかへと忘れてしまう。いつの間にか、わたしたちはナポレオンやその友人の行方が、より良い方向へ向かうようにと祈るかのように見守りはじめているからだ。同時にまた、ナポレオンの兄やおじさんの行方も、笑いと悲哀を胸に抱きながら見守ることになるのだ。
主人公のナポレオンやその家族や友人たちは、わたしたちの目から見ればぱっとしない日常を送っている。けれども、ぱっとしないように見える日常生活は、ナポレオンたちにとっては実にシリアスでリアルな日常に違いない。過去にとらわれ、未来を夢見て、ぱっとしない現状に思い悩む。だからこそ本人たちは必死なのだが、その必死さがわたしたちの目から見ればコメディ的なおかしみさえもたらすのだ。
ぱっとしないけれど、シリアスでリアルな日常。そんな日常の中で本人たちは必死だが、どこかずれている。それはある意味では、わたしたちの日常そのものだ。だからこそ、はじめは違和感や不安を抱きながら物語を眺めていても、わたしたちは少しずつ目の前の物語に引き込まれ、いつの間にかナポレオンたちを応援し、喜怒哀楽をともにしているのだ。
※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。
運命がつかさどるよりもずっと奇妙なことが、この世界では起こりうる/『誘惑のアフロディーテ』
運命がつかさどるよりもずっと奇妙なことが、この世界では起こりうる/『誘惑のアフロディーテ』:目次
- 「理想的な」母親探しに奔走する物語
- 自分の人生にうんざりしていたリンダ
- 予言を振り払って、自分の信念に突き進むレニー
- 一歩間違えれば壊れてしまいそうな幸福
- 映画の概要・受賞歴など
- 参考リンク
「理想的な」母親探しに奔走する物語
映画『誘惑のアフロディーテ』は、スポーツ記者のレニー・ワインリブとアマンダの夫婦が養子を引き取るところから始まる物語。レニーとアマンダの間には子どもがいない。アマンダは養子を引き取って育てることを主張するが、レニーは反対する。しかし、いざ養子のマックスを引き取ると、レニーはマックスにメロメロとなり親バカぶりを発揮する。
それから数年後、マックスはこんなにハンサムで利発で性格も最高の子どもなのだから、遺伝からするとその実の母親も素晴らしい「理想的」な母親に違いないとの思いにレニーは取りつかれてしまう。その一方で、画廊に勤めるアマンダに独立する話が持ち上がり、アマンダは後援者のベンダーに言い寄られる。レニーとアマンダの夫婦関係が少しずつ冷めたものになっていくと、ますますレニーはマックスの実の母親探しに没頭する……、というストーリーだ。
この物語は「再生」がテーマなのかもしれない。「再生」とはいうまでもなく、リンダの人生「再生」を描いているからだ。リンダとは、レニーが探し当てたマックスの実の母親である。
レニーがようやく探し出したマックスの実の母親リンダ、彼女は「理想的」とは言いがたい女性だということがすぐに判明してしまう。リンダは女優を目指し、その夢を叶えるためにポルノビデオに出演し、今では娼婦をやっている女性だったのだ。それでもレニーは、リンダを「再生」させるために奔走する。その一方で、レニーとアマンダの夫婦仲はますます悪化してゆく……。
※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。
「コンプレックス」が原動力/2017年2月のまとめ
『誤読と曲解の映画日記』:2017年2月のまとめ目次
「コンプレックス」が原動力
そもそも、なぜわたしは映画を観た感想をブログを書いているのだろうという話です。そういえば、ブログを立ち上げた理由やブログを書き続ける理由など、これまでどこにも書いてないなと気づいたので、自分用のメモとして書いておこうと。
結論から言うと、「コンプレックス」、劣等感と言い換えてもいいのですが、そういうものが根底にあるからなのではないか、ということに行き着きました。
他の人にとっては、もうとっくに観ていて当然の作品を自分はまだ観ていない。自分には映画に関する知識や常識が他の人よりも大きく欠落している。そんな「コンプレックス」が、自分の根底にあるし、最低でも月2回は映画のブログを書く原動力になってるのではないか。
それに加え、月2回は映画の感想をブログに書くために、最低でも月に2本以上の映画を観なければならない。つまりは月2本以上の映画を観ることを、自分にノルマとして課しているわけです。どうしても意図的に時間をとって映画を観なければならないという状況に、自分を追い込んでいるわけですね(そんなおおげさな行為でもないですが)。それで数をこなして、観たことのある作品を増やしていくと。
さらには、記憶力が悪いということもある。映画の作品名を聞いて、その大まかなストーリーの流れや結末を忘れてしまっていることはしょっちゅうだし、役名はもちろん、出演している俳優の名前すら出てこないこともある。
じゃあ、映画ブログを書きはじめて、コンプレックスを克服し、記憶力も良くなったのかというと、そんなことはないんですけどね。実に困ったことです。
それでは、今月の『誤読と曲解の映画日記』と『誤読と曲解の読書日記』のまとめです。