大山のぶ代原理主義ではない
わたしはドラえもん映画は大好きで、大山のぶ代がドラえもんの声優を務めていた時代の映画はすべて観ている。しかし、大山のぶ代から声優が交代して以降のドラえもん映画は、いっさい観ていなかった。
「ドラえもんの声優は、何がなんでも大山のぶ代でなきゃいけない!」というような、大山のぶ代原理主義というわけではない。
声優の交代というものは長期アニメの宿命みたいなもので、たとえばサザエさんだって主要な役の声優(波平やフネ、中島君など)が近年交代しているが、わたしはそれを違和感なく受け入れている。
だから、ドラえもんの声優が交代しても、わたしはさほど違和感を抱かなかった。長期アニメの声優の世代交代はいつかなされなければいけないことだ。アニメのキャラクターとは違い、人間は年齢を重ねるし、健康を損なうことだってあるからだ。
大山のぶ代から声優が交代して以降、ドラえもんの映画は観ていなかったと書いた。しかし、テレビアニメのドラえもんの方は、時代も21世紀だし、それに合わせてリニューアルするのもありだと考えて受け入れている。それほど頻繁に観ているわけではないが。
それでも、なぜかドラえもん映画になると敬遠していた。
なぜなら、作者の藤子・F・不二雄先生が亡くなったので、原作はなく、オリジナルの脚本にならざるを得ないから、というところに引っかかっていたからだ。もちろん、大山のぶ代時代の終盤の方の映画も、オリジナルの脚本だったわけだが、それらは藤子・F・不二雄先生が原作を自ら描いていた頃と比べると、いくぶんか(ものによってはかなり)クオリティが低下したかのように見えた。
だから、声優もみんな変わったし、絵柄も大きく変わったし、脚本もオリジナルとなると、というふうに不安を覚え、声優リニューアル以降のドラえもん映画は敬遠していたのだ。
しかし、今回声優リニューアル以降のドラえもん映画を観る機会があったので、この映画『ドラえもん のび太の人魚大海戦』を観たというわけです。
※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。
『人魚大海戦』に抱いた違和感〜『海底鬼岩城』との比較から
映画映画『ドラえもん のび太の人魚大海戦』、結論から言うと、物語としてはそれほど面白くはない。わざわざ『人魚大海戦』を観るのなら、初期の『海底鬼岩城』などの映画を観た方がずっといい。
そういった印象を抱いた映画だったので、思わずいくつか抱いた違和感などをtwitterに投稿したのだが、それらのtweetを以下に貼り付けておきます。
※返信機能を使って、連続投稿したものを貼り付けていますので、ここのつぶやきの上に直前のつぶやきと同じつぶやきが表示されますが、これはおそらくtwitterやはてなブログの機能によるものだと思われます。読みにくくてすみません。
のぶ代時代から声優が変わった以降のドラえもん映画を初めて観た。作品は『ドラえもん のび太の人魚大海戦』。ドラえもんに材をとった二次創作と思えばさほど腹も立たないが、ちょいちょい違和感を覚えるな。細かいところの設定が、のぶ代時代のドラえもんとは少しずつ違うから。
— のび (@nobitter73) 2016年4月30日
『ドラえもん のび太の人魚大海戦』、海底が舞台ということで『海底鬼岩城』と比較してしまうし、評価もそうならざるを得ないが、それを承知で海底の話を作る製作陣の勇気がすごい。それで『海底鬼岩城』と同等かそれ以上のクオリティなら勇気を讃えたいが...。(それを求めるのは酷かもしれない)
— のび (@nobitter73) 2016年4月30日
たとえば、この『人魚大海戦』に登場する敵の戦闘艇の見た目は、ほぼ『海底鬼岩城』の丸パクリ。『海底鬼岩城』へのリスペクトが作中に垣間見えるのならともかく、単なる丸パクリとしか映らないので、このあたりは製作陣の蛮勇としか言いようがない。
— のび (@nobitter73) 2016年4月30日
また、『海底鬼岩城』と同じく、海底でも陸上と変わらない活動ができるテキオー灯という道具を照射する場面がある。しかし、テキオー灯は光線を発射する道具だから、その光を浴びる人の顔の頰や鼻がプルプルとたなびく設定ではなかったはず。ここで敢えて滑稽に見せようという演出の意図が不明。
— のび (@nobitter73) 2016年4月30日
従来の作品では敵に追い詰められて切羽詰まったとき、ドラえもんがポケットからうまく道具を出せずにいろんな日用品をたくさん出すお約束がある。しかし、本作では、単に便利な道具を出すときに脈略なく慌てふためいてポケットからたくさんの日用品を出すという演出がなされているのも、ひどい違和感。
— のび (@nobitter73) 2016年4月30日
敵に捕らえられたドラえもんたちが、巨大なクジラにまさに食べられてしまうピンチを乗り越える場面。ジャイアンの叫び声がボエーと響いて、逃げ出すことに成功するのだが、ジャイアンの声でピンチを乗り越えるのなら、ここは叫び声ではなくて歌声だろう。登場人物の特性すら、使い方を間違っている。
— のび (@nobitter73) 2016年4月30日
また、しずかちゃんが敵に捕らえられたことが判明したあと、スネ夫がパニックになって水中を暴走するのだが、スネ夫の性格からすれば、そんな慌てふためき方は不自然すぎる。スネ夫ならば、しずかちゃんが敵に捕らえられたと判明した時点でブルブルと敵に怯え、戦う意欲を失うのが自然だろう。
— のび (@nobitter73) 2016年4月30日
あと、登場人物たちが口にするちょいちょい説教くさいセリフが気になる。「あきらめずに立ち向かおう」、「みんなで力を合わせて戦おう」的な道徳的・自己啓発的なセリフは、のぶ代時代前半あたりまではなかったもの。そのせいで、映画観てるのに武田鉄矢に説教くらっているような感じになってしまう。
— のび (@nobitter73) 2016年4月30日
その武田鉄矢の曲は作中に流れるが、登場する時間帯が早い。従来は多くの場合、仲間やゲストキャラとの間に摩擦や葛藤があって、それを乗り越えたあとのクライマックスへ向かう箇所に効果的に使われていたが、本作では早い時間帯に、単に楽しい冒険へと踏み出すんだ的な残念な使われ方をしている。
— のび (@nobitter73) 2016年4月30日
エンディングには青山テルマの曲が使われている。のぶ代時代後半から終盤にかけて、ドラえもん映画でもJPOP歌手による一般的(アニメ主題歌的ではないという意味)な曲が使われているが、本作もその悪しき伝統が引き継がれているのが残念なところ。
— のび (@nobitter73) 2016年4月30日
その青山テルマの曲、作品のテーマとも合致しない曲なので、作品全体から見てもエンディングだけが非常に浮き上がっているし、とりあえずかっこいい感じで作ってみました、というような取って付けたような違和感。歌詞もメロディも非常に陳腐なもので、印象にすら残らない。子どもが口ずさめない曲だ。
— のび (@nobitter73) 2016年4月30日
絵柄を見てみると、敵の親玉や敵たち、人魚族の女王、国の民衆の顔立ちが現代すぎる。藤子漫画に登場するような丸みのある顔立ちの人物ではない。もう少し藤子漫画テイストのある絵柄でも良い。これじゃ別のアニメのようで、ドラえもん映画とは思えない。それだけに敵の印象も薄いのが残念。
— のび (@nobitter73) 2016年4月30日
まああれだ、映画『ドラえもん のび太の人魚大海戦』、よほどのことがない限り、二度と観ることはなかろうという作品だった。製作陣は猛省してほしい。
— のび (@nobitter73) 2016年4月30日
補足
このブログは原則として、毎月第1と第3土曜日に更新するものですが、たまにそれ以外にも投稿することがあります。
参考
1)Yahoo!映画/『ドラえもん のび太の人魚大海戦』
movies.yahoo.co.jp
2)映画.com/『ドラえもん のび太の人魚大海戦』
eiga.com
このブログ管理人のtwitterのアカウントは、nobitter73です。