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誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

不条理、それは我々の人生そのものかもしれない/『シリアスマン』

我々の人生は不条理以外の何物でもない

映画『シリアスマン』は、人生の不条理をこれでもかと描いた作品。人生は不条理な不幸に満ちていて、人間がどうあがいても、やがて訪れる終末に立ち向かうことなどできないのかもしれないということを、これでもかと見せつける。我々の人生のどこにも、希望というようなものを見出せないような気持ちにさせられる。

主人公の中年男性は敬虔なユダヤ教徒の大学教授。この映画では、とにかく主人公に次々と不幸が襲いかかり、その不幸に対処するためにあたふたする主人公の姿が描かれる。そしてようやく、この映画の結末でそれらの不幸が少しずつ取り払われていくように見えるが……、というのが、この映画の大まかなストーリーである。

ところで、現実の我々が抱え込む人生のさまざまな問題のかなり多くの部分は、世の中にあまたあふれる映画やテレビドラマのようにすっきりと解決できるものごとではない。進学や就職、恋愛や結婚、子育てや人間関係。ありとあらゆる場面で、不条理な不幸が次々にやってきては我々の側にまとわりついて居座ってしまう。

我々はそんな不幸を追い払おうとしても、簡単には消え去ることはない。それでも不幸を少しでも取り除こうとのたうちまわるうちにも、また新たな不幸がやってくる。この映画の主人公もまったく同じで、次々とやってくる不条理な不幸に追われてしまう。この映画はその意味では、我々の人生そのものを描いているとも言えるだろう。

我々は次々に直面する大小さまざまな問題にあたふたし、時に絶望を抱え、そして時にはかすかな希望を見出す。しかし、この映画では主人公が我々と同じく、不幸にとらわれてあがいている間にも、破滅は確実に主人公の元へとひたひたと近づいていることが結末に描かれる。ある意味では、我々の人生そのものが、まさに不条理以外の何物でもないということが描かれていると言えるのかもしれない。

映画『シリアスマン』は、そのようなことを直視させられる映画だ。

※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

焦燥感、やり場のない怒り、解消されることのないフラストレーション

冒頭にも書いたとおり、この映画では、とにかく主人公に次々と不幸が襲いかかる。

たとえば主人公は、物語の冒頭で妻に離婚を切り出される。それは妻が主人公の友人と不倫していて、妻はその友人と再婚するつもりだということが明かされる。家族が抱える問題はそれだけではない。

主人公の息子はもうすぐユダヤ式の成人式を控えていて、それがうまくいくかどうかそのことも気がかりとなっている。その息子はユダヤ系の学校に通っているが、学校では同級生からマリファナを購入している。しかし、マリファナの購入代金を忍ばせていたウォークマンを先生に取り上げられ、マリファナの代金が支払えずに、売人の生徒から日々追われる羽目になる。

娘は自分の顔が気に入らず、いつか整形することを目論んでいるし、家には主人公の弟が居候している。この弟も、(おそらくは精神的な)病気で職もなく、家でぶらぶらとしているだけで、娘からは邪魔者扱いされている。

隣人もまた頭痛のタネをばらまく。隣人は主人公の家の敷地内の芝生を勝手に刈るばかりか、敷地を超えて小屋を立てようとしているからだ(舞台はアメリカの田舎町なので、家の敷地は広く、隣との柵も囲いもない、芝生が地続きの住宅地に住んでいる)。

主人公は大学で物理学を教えているが、ある学生に落第点を付けたおかげで、その学生から賄賂を送られ、成績を良く改ざんするよう暗に迫られる。主人公はそんな要求など突っぱねるが学生は頑として応じない。主人公は近々、大学で終身雇用がなされるかどうかの決定を控えていて、そのことも気にかかる。

次々にやってくる不幸に耐えかね、敬虔なユダヤ教徒である彼は、ユダヤ教の聖職者ラビたちに相談を決意。自らに降りかかってきた不幸を解決するため、そして心の安らぎを得るために。

けれども、ラビたちは問題の解決になるようなことは教えてくれないし、心の安らぎも与えてはくれない。むしろ、主人公は悪夢にうなされる日々が続く。不幸は主人公に重く積みかさなり、主人公はその重みに耐えることなどできない状態に追い込まれる。

自分がもし主人公だったら、もうどうしようもないだろうなとしか言いようがない。主人公は敬虔なユダヤ教徒だから、心の安らぎをユダヤ教の聖職者に求めるが、基本的に無宗教なわたしだったらどうするだろうか。もちろん、法律的な問題は主人公と同じく弁護士に委ねるだろうが、それだけでは心の安らぎは得られそうもない。

きっと自分だったら、やり場のない怒りや焦燥感、解消されることのないフラストレーションといったような、どちらかといえば抱えたくはない感情の澱のようなものさえ抱え込むことになるだろう。この映画の主人公と同じように。

そういう意味で、物語が進むにつれ、心が締め上げられるような息苦しささえ感じる映画だ。そして我々は主人公と同じく、いつまでも心は晴れないまま、ストーリーが経過してゆく。時間だけが無情にも経過し続ける。まるで時限爆弾の爆発がひたひたと近づいてくるのを、どうしようもなく見守っているような感じだ。

映画のストーリーが、見る者のの心にフィジカルな影響を与えるという意味ではなかなかすぐれた映画だと思う。

カタルシスを得られない種類の映画

多くの映画やテレビドラマでは、主人公が直面する問題は物語内で解決がはかられる。それがハッピーエンドだろうが、バッドエンドだろうが、主人公が直面した問題は解決し、その作品を観る我々もまたカタルシスを得る。「主人公がハッピーエンドを迎えられて良かった」、「後味は悪いけど、けっきょく主人公はそうなる運命だったのだ」というように。

しかし、この映画『シリアスマン』、作中でははっきりとした結末、つまり主人公などの抱えていたさまざまな問題の解決といったものは明確には示されていない。あくまでも、映画のラストで示唆されるにとどまる。

それも、主人公の抱えていたもろもろの問題がようやく良い方向に解決されるかもしれないと、観る者がほのかな期待を抱きはじめたその瞬間に、巨大な竜巻が街に近づいてくるというところで終わる。映画はそこで終末を迎えるが、主人公たちが抱えていた問題がそのあとにどうなってしまうのかということは、あくまで観る者の想像に委ねられる。

だから、はっきりとしたカタルシスは得られない。そういうものを求めている人には、この映画はつまらないのかもしれない。明確な結末は描かれないからだ。そういう意味では、この映画はある種の純文学に近いのかもしれない。

でも、人間の現実の人生で直面するさまざまな問題は、たいていの映画やドラマのように、そのすべてがみな明確に解決するわけでもないだろう。もちろん、法律的金銭的な方法によって解決がはかられることもあるが、それでも割り切れない部分や納得できない部分が残り続ける場合だってある。人生の問題は、もやもやとしたまま放置されることもある。死までつきあわなければならない慢性病のように、人生につきまとう問題だってある。

だから、この映画『シリアスマン』は、我々の人生そのものを描いた映画であると言えるだろう。そして、我々の人生そのものが、まさに不条理以外の何物でもないということが描かれていると言えるのかもしれない。

余談

ところで、この映画は、敬虔なユダヤ教徒が主人公であり、ユダヤ教の学校や聖職者、それに成人式の儀式も出てくる。だから、映画全体のストーリーや結末にも、ユダヤ教的な意味合いが込められているのかもしれないとも思う。

でも、わたしをはじめかなり多くの日本人は、ユダヤ教についての知識など何も持ち合わせていない。だからと言って、この映画の意味やその象徴するものについて、我々日本人は理解することはできないのだというつもりはない。

むしろ純粋に、我々の日常とは異なったひとつの世界観を持った映画として楽しめば(あまり楽しむ種類の映画ではないが)いいのではないかと言いたいのだ。

映画の結末のその後についてだって、いろいろな可能性が考えられる。

ひょっとすると、映画では描かれなかったその後の世界では、主人公たちは破滅を迎えたのではなく、一時的な危機的状況を乗り越えた末に、抱え込んでいた問題が一気に片付いているという可能性だってある。あるいは、主人公たちが破滅を迎えることも、抱えていた問題が好転することもなく、やはり次々に問題が降りかかる日常が、ダラダラと続く日常が続いていることも考えられる。

そういう意味では、この映画の結末はオープンエンドな描き方であるといえよう。そしてその複数の可能性まで想像するところに、この映画の楽しみがあるのかもしれない。

参考

1)Yahoo!映画/『シリアスマン
movies.yahoo.co.jp

2)映画.com/『シリアスマン
eiga.com


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