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誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

何かにトライするのなら徹底的にやれ。でなきゃやるな/『酔いどれ詩人になるまえに』

映画日記

チナスキーは挑発する

映画『酔いどれ詩人になる前に』は、観る者を挑発する。お前は切実なものを抱えているか? それをしないではいられない何かを持っているか? それを失ったら、自分で自分を保つことができるか? そんな挑発が画面からあふれる一本だ。

この作品は、主人公のヘンリー・チナスキーが最低の生活を送りつつも、作家になるために小説を書き続ける日々を描く物語。チナスキーは酒と女にまみれ、仕事に就いてはすぐにクビになる。金に事欠く生活だ。チナスキーはそんな最低な生活を送りながらも小説を書き続ける。狭い部屋の片隅で。カフェのテーブルで。作家として認められるため。

チナスキーは書き続ける。次々に湧き出てくる言葉を消えてしまわないうちに書き留める。そうしないことには、自分が自分でいられなくなってしまうことを恐れるように。あるいは、この世界にとってはしょせん”雑役夫"でしかない自分が、一刻も早く世界から作家として認められるように。

いずれにせよ、チナスキーにとって書くことは自分の存在に関わるほどの切実な問題で、自分を単なる”雑役夫”ではなく、”作家"としてこの世界にきっちりとつなぎとめておこうとする挑戦なのだ。

チナスキーのどんな状況でも小説を書き続ける姿が観る者を挑発する。チナスキーの挑発が、不安に似た気分さえかき立てる。本作は、チナスキーほどに切実なものを持っていないかもしれないわたしたちに、そして世界に対して何の挑戦もしていないかもしれないわたしたちに、自分は本当にこれでいいのだろうか、このままでいいのだろうかと内省を迫る一本だ。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

何かにトライするのなら徹底的にやれ。でなきゃやるな

他人から見ればチナスキーという人物はろくでもない人物だ。定職にもつかず、両親にも見放され、決まった住所もない。そんな中、生きるよすがのようにチナスキーは小説を書き続ける。酒に酔っても、女とくっついたり離れたりしても、仕事してもクビになっても、チナスキーは書き続ける。

送った原稿がどれだけボツになっても、やっぱりチナスキーは書き続ける。それはチナスキー自身が語るように、「どん底でも、言葉はおれの中から沸き上がり、書き留めないと死よりひどいものに支配され」てしまうからだ。

この映画の最後に近いシーンでは、チナスキーは日雇いの仕事を見つけに行った先で、飲んだくれの黒人の老人に出会う。ふたりは意気投合し、路上で酒を飲み明かす。やがて路上で朝を迎えたふたりは、差し込んできた朝日を一緒に浴びる。そして左右に分かれ、再びそれぞれの行く方へと歩いて行く。美しく心温まるシーンだ。このシーンは、チナスキーの人生に希望の光が差し込んだことを示しているようだ。

それは、映画ではその後に、チナスキーのいないアパートの部屋へ雑誌社から小説の掲載通知が届くからだ。「もし、何かにトライするのなら徹底的にやれ。でなきゃやるな」。このチナスキーの言葉に象徴されるように、どんな状況でもやり続けていればいつか報われるといういささか教訓めいたラストをここで迎える。

本作は、自分の存在に必要なものをけっして手放さずに徹底的にトライすれば、いつか希望の光が差し込むのだ、というメッセージが込められていると言えるだろう。それによって、わたしたちは自分の中にあった情熱を思い出し、人によってはその情熱の炎をもう一度燃やすかもしれない。

映画『酔いどれ詩人になる前に』、きれいにまとまりすぎているきらいがあるが、それなりにストーリーに納得できる構成になっている。

必ずしも社会不適合者ではない

映画『酔いどれ詩人になる前に』、アメリカの作家チャールズ・ブコウスキーの自伝的小説『勝手に生きろ!』が原作になったものだ。

映画、小説ともに原題は"factotum”。これは「雑役係」「雑用係」「なんでも屋」との意味がある。チナスキーはさまざまな職業に就き、配送係や箱詰め係、掃除係となんでもやっている。原題はここから来たのだろう。

この映画、チナスキーを社会不適合者、つまり常に酒に酔っていて、仕事の意欲もやる気もない人物として描いている。ただ、チャールズ・ブコウスキーの書いた原作の『勝手に生きろ!』を読むと、チナスキーという人物はそういった一面のみで捉えきれないものがある。

原作のチナスキーは自分なりにはじめは真面目に働こうとしている。しかし、実は会社や会社の連中がいい加減で嫌な奴であるにもかかわらず、表面だけはきれいに取り繕っている。そんな嘘に嫌気がさして、チナスキーは仕事をやめてしまうのだ。

会社の中でも(そして実社会においても)最底辺(であると位置づけされる)の”雑用係”という位置は、いかに表面をきれいに取り繕った連中が、実は嫌な人間であるかということを見抜くのには格好の位置なのかもしれない。

だから原作を読むと、チナスキーが社会不適合者だから仕事を次々にクビになるとは限らないという見方もできる。

チナスキーの面白さとすごみ

もうひとつ、映画と小説の違いを挙げると、本作では小説の採用通知が届くのが、映画の最後に近いシーンにあるが、原作ではかなりはじめの方で通知が届く点だ。出版社に送り続けた小説のうちの一本がようやく採用になった。けれども、チナスキーは小説だけに専念するわけではなく、相変わらず酒に溺れ、女に溺れ、仕事に就いてはすぐにクビになってしまう。

希望の光が差し込んできたにもかかわらず、まだそれまでの最低な生活を変わらずに送り続けるところに、チナスキーの面白みやすごみがある。最低な生活を送りながらも、夢に向かって徹底的にトライし続ければいつかその夢は叶うというような単純さを、原作の小説はある意味で否定している。そんなところが、チナスキーというキャラクターの一筋縄ではいかないところを示している。

原作を読むと、チナスキーの言葉ひとつひとつが発熱し、切実で、挑発的なことがわかる。それは小説として魅力的なひとつの作品ではある。ただ、そんな原作に忠実すぎると、映画はまとまりのないもの、(商業映画的な意味での)メッセージ性のないものになってしまう恐れがある。だから映画は映画、原作は原作で楽しめば良いのではないだろうか。

ところで、主人公のヘンリー・チナスキーは、作者のチャールズ・ブコウスキー自身がモデル。本作のチナスキー役はマット・デイモンが演じているが、ブコウスキー役にはイケメンすぎるように感じた。もっとイケメンではない俳優が演じたら、もっと作品全体のテイストやチナスキーの切実さも、もっと違ったものに感じられたかもしれない。

映画『酔いどれ詩人になる前に』は、暑苦しくて寝つけない夜にダラダラと観るといいのかもしれない映画だ。イライラが募ったところに、チナスキーの鋭い眼光が飛んでくる。そんな感じの一本だからだ。

参考

1)Yahoo!映画/『酔いどれ詩人になるまえに』
movies.yahoo.co.jp

2)映画.com/『酔いどれ詩人になるまえに』
eiga.com

3)Filmarks/『酔いどれ詩人になるまえに』
filmarks.com

4)『酔いどれ詩人になるまえに』/公式ホームページ
www.vap.co.jp


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