誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

悲惨なかたちではあれ、自分の人生から逃れられた男の物語/『バーバー』

悲惨なかたちではあれ、自分の人生から逃れられた男の物語/『バーバー』:目次

空虚な自分の人生から抜け出したいと願った男

映画『バーバー』は、自分の人生を生きることのできなかった男の悲劇を描いた物語だと言える。誰しもが自分の人生にうんざりし、自分はこんな人生を歩むはずじゃなかった、あるいは新しい人生をはじめたいと、心の奥底で願ったことがあるだろう。この物語の主人公エド・クレインも自分の人生にうんざりし、心の奥底では自分の人生を大きく変えたいと願っていた。

エドは、ベンチャー事業への投資を機に自分の人生を変えようと一大決心するが、それが身の破滅を招いてしまう。この作品は、エドが人生に感じる倦怠から抜け出そうともがくが、蟻地獄にはまったかのように自分の人生からは逃れることができなかったが、最後の瞬間になってようやく、自分の人生から抜け出すことができた男を描く物語だ。

この物語に出てくる人物たちは、みなどこかに悪を抱えている。ほとんどの人物は小さな悪であり、その悪を抱えていることを自分が自覚しているかどうかもあやしいところである。

いくつかの小さな悪がもたらした成り行きによって、エドは殺人という大きな悪を犯してしまう。そのあとも、小さな悪と呼ぶべきものを抱えた人物たちによって、エドの人生や運命といったものがエド自身でさえ抗うことのできない流れに巻き込まれてしまい、最後には身の破滅を招いてしまうのだ。ある意味では因果応報とも言えるだろう。わたしたちの目にはそのように見えても不思議ではないが、この物語は本当に因果応報の話なのだろうか?

もともと、エド自身も自分の人生や運命の手綱をうまく自分の手で握っていたわけではなかった。しかし、自分の人生を変えたいというエドが、成り行きでデイヴを殺害してしまうことで、エドの人生や運命はますます自分ではどうしようもない大きな流れの中に巻き込まれてしまうのである。それは悲劇的な人生の終着地点まで、容赦なく流してしまうのだ。

そういう意味で、この話はどこにも救いを見出せない悲惨な物語であると、わたしたちの目には映ってしまう。けれども、この物語は本当に救いようのない悲惨な話なのだろうか?
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※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

どこかにあるはずだった本当の自分の人生

主人公のエド・クレインは理容師だ。あるとき、たまたまエドの理容店を訪れた客のクレイトンから、ドライクリーニング事業への投資話を耳にする。将来有望なビジネスだが、出資者が見つからなくて苦労している。そんなたわいもない愚痴とも、あるいはセールストークとも取れるような話を耳にして、エドはやけにその話に惹きつけられてしまう。

エドは妻ドリスと出会って2週間で結婚し、自分のドリスの父親の営む床屋で理容師として働きはじめた。けれども、店のオーナーは妻ドリスの弟でやはり理容師のフランク。店を継ぐのはフランクと決まっている。だから、雇われの理容師でしかないエドは、真面目に仕事をしながらも、どこかやりきれないものを抱えていた。

この物語を通じて、エドは自分についてあまり多くを語らない。エドは常にタバコをくわえ、無口である。自分の心の奥底で望んでいることを誰かにおおっぴらに話したり、あるいは逆に自分が抱える不満や不平すら、ほとんど口にすることはない。そんなエドは、自分自身の状況や自分の人生を突き放して見ている感じすら漂う。

だから、エドがその内側に鬱屈したものを抱え続けていたとしても、それはエド以外の誰もその存在に気づかないままだった。それは、ある種の諦めに近い心境なのかもしれない。それでも、なんとか自分の人生をより良きものに転換させようとエドなりに行動するのだが、それがすべて裏目に出てしまう。

エドの妻ドリスは、町の小さなデパートで帳簿係として働いている。そんなドリスは、デパートの社長デイヴと不倫しており、エドもそのことを黙認していた。エドとドリスの夫婦仲は、とっくの昔に冷え切ってしまっていたからだ。デパートの社長デイヴは下品で尊大、プライドだけは高く、兵役についていた頃のつまらない自慢話をいつも披露するような人物である。そんなデイヴはどこかでエドを見下しているような雰囲気がある。

そのような妻や自分の人生に倦怠感を覚えたエドエドには、どこかにあるはずだった本当の自分の人生を、今の自分は生きていないという感覚が漂っている。そしてエドが今送っている、どこか借り物の人生から抜け出したいと心の奥底では願っていた。

だから、エドは怪しげなクレイトンのドライクリーニング事業への投資話に、どこか胡散臭いものを感じながらも、その話にすがるかのように惹きつけられてしまったのだ。エドは自分の人生を変えるための勇気を振り絞ったとも言えるし、または自分の人生に残された可能性に賭けたとも言えるかもしれない。けれども、その行動が悲劇の扉を開いてしまう。

偶発的な悲劇がもたらす悲劇の連鎖

エドはクレイトンのもたらしたベンチャー事業へ投資する資金を工面するため、匿名でデイヴに脅迫状を書き、ドリスとの不倫の口止め料として1万ドルを要求してしまう。デイヴが脅迫状のとおりに1万ドルを支払い、その金を受けとったエドはクレイトンに渡してしまう。その後に脅迫はエドの仕業だと気付いたデイヴは、逆上してエドを殺す勢いでエドの首を絞めるが、とっさに身を守ろうとしたエドから殺されてしまう。最初の悲劇が起こってしまうのだ。

このデイヴという男は、小悪的な人物だ。たしかに、戦時中は勇敢な兵士だったという自分の自慢話を、まわりの人物たちから煙たがられても話してしまう人物であり、デパートの支店を開くという自分の夢を果たすために、ドリスに店の金を流用させる人物でもある。下品で粗野で尊大で、良さそうなところは見当たらない人物だ。

けれども、デイヴはデパートの娘と結婚してデパートの経営を任されているだけの雇われ店長であることを告白する。ドリスとの不倫が妻にバレて離婚することになってしまえば、デイヴには何も残らないのだ。その意味では、デイブとエドは同じ境遇に立つ人物であると言えるだろう。言い換えれば、エドは自分で自分を殺してしまったのだと言えるかもしれない。物語の結末は、ここですでに運命付けられていたのだ。

事件のあと、何事もなかったかのように黙々と客の髪を切るエドの元に刑事がやってくる。エドは覚悟を決め、おとなしく刑事に連行されようとするが、刑事が告げたのは妻のドリスが横領と殺人の容疑で逮捕されたという知らせだった。これも物語の方向を悪い方へと転がす二番目の悲劇だといっても良いだろう。

そもそも、エドは刑事に連行される覚悟を決めていた。つまりはデイヴの殺人容疑を認めるつもりだったのだろう。けれども、デイヴの指示で店の金を流用していたドリスに横領と殺人の容疑がかかってしまい、エドは真相を言いだすことができないままであった。

また、横領の片棒を担いでいたという罪の意識からなのか、あるいはデイヴの会社の金を横領していたのは事実だから、いくらデイヴ殺しは自分ではないと主張しても、刑事や陪審員は自分の言い分に耳を傾けないと諦めていたのか、妻のドリスも自分にかかった殺人の容疑は冤罪であることを主張しないのだ。このドリスの沈黙も物事を悪い方向へと転がしてゆく。

弁護士を頼んだことでますます自分の運命に縛られる

妻のドリスのために弁護士を頼むことになり、エドは町の弁護士ウォルターに相談する。ウォルターは、殺人事件となると大きな町の経験豊富な著名な弁護士に頼んだ方が有利だとエドに伝える。そこでウォルターが推薦したのが、リーデンシュタイナーなる弁護士であったが、このリーデンシュタイナーを弁護士に選んでしまったことで、物事はさらに悪い方向へと進んでゆく。

リーデンシュタイナーは陪審員のそろう裁判を有利に進めるため、事実に耳を傾けず、法廷戦術のために自分たちの側に有利なストーリーを作り上げてしまう弁護士であった。妻のドリスと一緒にリーデンシュタイナーと対面したエドは、デイヴを殺したのは自分だと告げるのだが、リーデンシュタイナーは妻のドリスをかばうための夫の慈悲だと受け止めて、まともに取り合わない。

このように、リーデンシュタイナーなる弁護士もまた悪を抱えているとも言えるだろう。真実を追求せず、自分の都合の良いストーリーをでっち上げるのだから。

そんなリーデンシュタイナーへ弁護を依頼するにも莫大な金が必要となる。その費用を賄うためにドリスの弟は店を担保に銀行から借金までしてしまう。借金を返済するためにますます理容店の仕事に没頭せざるを得ないエド

もともとは理容師という人生から抜け出そうと画策したことなのに、ますます理容師という仕事に没頭せざるを得ない状況に追い込まれるのが悲劇的であり、喜劇的でもある。エドはどこまでも理容師であることを運命付けられているかのようだ。

あるいは、理容師という仕事に没頭せざるを得ないエドの姿を見ながら、エドにとっては理容師という仕事がけっきょくは天職なのではないかと。そして、その理容師という転職を投げ打つことこそ、自分の人生や運命に対する裏切りだったのではないのかと。自分の人生への裏切りが、身の破滅を招いてしまったのではないだろうかと。そのような、さまざまな思いがわたしたちの胸を駆けめぐってしまう。
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善良なるものがもたらす身の破滅へと突き進むための手助け

妻ドリスの裁判のかたわら、理容師としての仕事に没頭するエドの息抜きとも言える時間が、町の弁護士ウォルターのの娘バーディのピアノの演奏を聴く音であった。バーディとは、以前ドリスとともに出かけたデパートの社員パーティーの場で出会っていた。パーティー会場の隅でバーディの奏でるピアノの演奏に、エドは自然と魅きつけられていたのだ。

このウォルターもバーディは、エドの助けとなる存在ではあった。ドリスの罪が少しでも軽くなるためにということで、ウォルターのすすめでリーデンシュタイナーなる弁護士を雇ったし、バーディのピアノの演奏が、エドにつかの間の心の平安をもたらした。

けれども、先に述べたように、リーデンシュタイナーは真実を追求しない弁護士であった。そして、ウォルターの娘のバーディも、エドに大きな災厄をもたらすことになる。すべてが裏目に出てしまうのである。その意味では善良なるものたちも、けっきょくはエドに災厄をもたらし、身の破滅へと突き進むための手助けをしてしまったとも言える。なんとも皮肉で悲劇的である。

バーディの奏でるピアノの演奏にすっかり魅了されたエドは、バーディにピアノの才能があると信じ、この才能を伸ばしてあげたいと望むようになる。エド自身の人生は、必ずしも自分の望むものではなかった。だから、バーディのピアノの才能を伸ばして、バーディ自身では考えつかないような、人生への扉を開けてあげようとするのだ。

バーディが一流のピアニストになり、エドはマネージャーとして一緒に各地を飛びまわる。エドはそんなことを夢見るようになってしまう。その夢は、エドの新しい人生の目標として燦然と輝く。まるで、諦めてしまった人生の可能性を、バーディに見出すかのように。

あるときエドは、バーディの才能をはっきりさせるため、遠くの街に住む有名なピアノ教師のところへ、バーディとともに出かける。しかし、ピアノ教師からバーディにはピアノの才能がまったくないことを宣告されてしまう。もともとピアニストになることなど考えてもいなかったバーディは、その結果を当然のものだと受け止めるが、エドはあのピアノ教師は何もわかっていないと怒りすら覚える。

そんなエドの姿は、自分の思い描いた将来が、けっきょくは思いどおりにうまくいかなくなってしまったことに対する失望があふれている。エドの人生はどこまでもエドの想い描く方向には進まない。落ち込み、怒りすら抱くエドに、お礼だけでも伝えようとするバーディは運転中のエドに触れる。それを拒もうとするエドは大事故を起こし、病院へ運ばれてしまうのだ。エドの運命は、ますます悲惨な方向へと走りだす。

うんざりとした人生から、ようやく解放される

交通事故を起こし、病院で目を覚ますエド。しかし、エドが目を覚ますのをふたりの刑事が待ち構えていた。なぜなら、金を持って逃げたと思われていたクレイトンの死体が見つかり、その殺人の容疑がエドにかかっていたからである。エドの弁護は再びリーデンシュタイナーが手がける。けれども、エドは死刑を宣告されてしまう。

交通事故を起こさず、クレイトンの死体が見つからないままだったら、エドの運命はどんな方向に進んでいただろうか。そんなことを考えてしまう。しかし、いずれにしてもエドの人生は理容師としての人生を送らざるを得なかったのではないか。そしてエドは、自分の人生にうんざりしたまま一生を理容師として過ごしたのではないか。その場合、ひょっとすると自分の人生の空虚さに耐えきれなくなって、自殺を図ってしまったかもしれない。そんな想像すら膨らんでしまう。

この物語の冒頭にふたつの疑問を掲げた。まず、この物語は本当に因果応報の話なのだろうか? という疑問。たしかに、殺人を犯したエドは、別の殺人の容疑を着せられ死刑を宣告された。自分の犯した悪から逃れられずに、罰を受けたという意味では因果応報的な話である。

けれども、エドははじめはデイヴを殺したことを認め、刑事に連行されることまで覚悟していた。その後の奇妙な運命の歯車のせいで、エドは真実を世の中に語ることはできなかったが、積極的に逃げ回っていたわけではない。どこかに逃亡するわけでもなかった。

エドは心のどこかで、自分が死刑になることを覚悟し、望んでいたのかもしれない。うんざりとした自分の人生から逃れることができれば、別の殺人の容疑を着せられ、死刑を宣告されても構わないと思っていたフシはないだろうか? その意味では、この物語は厳密には因果応報とは言い切れないだろう。だから、エドが物語の最後で電気椅子に座り、死刑を執行されても、どこにも救いを見出せない悲惨な物語だとは言い切れないのかもしれない。

ふたつ目の、この物語は本当に救いようのない悲惨な話なのだろうか? との疑問に対しても、必ずしもそうだとは言い切れないのではないかとも思う。

エドは死刑執行の直前まで、立会人たちの髪型のひとつひとつをじっと見つめる。理容師としてのエドは、人生の最後まで理容師という人生から逃れられなかったことを示している場面だと言えるのではないか。エドは最後の最後まで、あれほどうんざりとしていた理容師としての人生を生きたのだ。だから、死刑執行という悲惨なかたちではあれど、エドは自分のうんざりとした人生から、ようやく解放されることができた。エドは、ようやくそこで救われたのだと言えるだろう。

映画の概要・受賞歴など

映画『バーバー』は、2001年制作のジョエル・コーエン監督作品。ジョエル・コーエン監督は、この作品で2001年のカンヌ国際映画祭監督賞を受賞。

なお、脚本はジョエル・コーエンイーサン・コーエンの兄弟で執筆。この脚本はジェームズ・M・ケインの小説『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のストーリーに似ており、この小説からの影響もあると指摘されているそうだ。

本作品の原題は”The Man Who Wasn't There”、直訳すると「そこにいなかった男」あたりになるだろうか。自分の人生なのに自分の人生にいない男。そんな雰囲気が感じられる。

※この項目は、Wikipediaの「バーバー(映画)」の項目などを参考にしました。

参考リンク

1)Yahoo!映画/『バーバー』
movies.yahoo.co.jp

2)映画.com/『バーバー』
eiga.com

3)Filmarks/『バーバー』
filmarks.com


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