誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

現実と非現実の曖昧な境目/『スイミング・プール』

現実と非現実との曖昧な境目

映画『スイミング・プール』は、主人公のミステリ作家サラが過去の自分と決別し、新しい自分に生まれ変わる軌跡をたどる物語だと言えるのかもしれない。少なくともわたしはそんな印象を持った。

スイミング・プール』は、倦怠を抱えたサラが、編集者ジョンが所有するフランスの別荘を借り、そこで気分を変えて新作を書こうと意気込む。ところがそこに、ジョンの娘だと名乗るジュリーが転がり込む。ジュリーは男を連れ込み、音楽を大音量でかけるなど、やりたい放題。当然、静かな環境で執筆したいサラと自由を楽しみたいジュリーは対立する……、というストーリー。

物語が進み、やがてある事件が起きる。その事件をくぐり抜けることにより、主人公のサラは変化し、ジュリーとの対立は解消する。サラは新作を書き上げ、出版社に持ち込む。そこへ再び編集者ジョンの娘が登場するのだが、わたしたちは大いに戸惑い、混乱し、いくつかの疑問を抱く。

それは別荘で会ったジュリーとは似ても似つかぬ、ジュリアなる名前の娘がジョンの娘として登場するからだ。あれ、このジュリアなる名前の娘が編集者の本当の娘だとすると、あの別荘で出会ったジュリーという娘はいったい誰だったのだろう、あの別荘で起こった出来事はいったい何だったのだろう、わたしたちがそれまでに観てきたものは、いったい何だったのだろう、と。

そんなふうにどこまでが現実で、どこからが非現実なのかわからないところが、この物語の一番の特徴だ。非現実というのは、それが想像なのか幻覚なのか、あるいはもうひとつの現実なのか確かめようもないということである。そんな現実と非現実の境目が曖昧ではっきりしないところに、わたしたちは戸惑い、不安さえ抱いてしまう。いくらでも解釈の余地のある作品だと言えるだろう。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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大いなる徒労と疲弊/『ビッグ・リボウスキ』

虚構と現実が入り乱れる物語

ビッグ・リボウスキ』は、誘拐事件を軸にしたコメディ映画。ただ、物語はまっすぐに進まない。必ず肝心なところで別の方向へ進むようにねじ曲げられ、ゆがめられてしまう。混乱に拍車がかかり、虚構の上に虚構が重なり、混沌がますます混沌としてゆく。わたしたちの目の前で起きているのは真実なのか、わたしたちはいったい何を目にして、何を見ようとしているのか。

主人公はうだつの上がらない中年男のジェフリー・リボウスキ、通称デュード。街一番の無精者だが、友人たちとボウリングをするのが楽しみなようだ。物語の中では、友人たちとともにボウリング大会にエントリーしている。結婚はしていないようだ。無職でどうやって生活費を稼いでいるのかは不明。長髪でだらしない服装をしている。

そのような主人公ジェフリー・リボウスキと同姓同名の大富豪リボウスキの妻が誘拐されてしまう。誘拐事件の身代金の受け渡しと人質の保護を、大富豪のリボウスキに頼まれたもうひとりのリボウスキはその頼みを引き受けるが……、という物語。

いったいなぜ大富豪のリボウスキは、こんな無精者で見るからにうだつの上がらない中年男に、誘拐事件の解決を依頼するのか、その思惑はいったい何なのか、デュードはいったいどこへ行こうとして、どこへ導かれるのか、といったところがこの誘拐事件の、そしてこの物語の鍵なのかもしれない。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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不思議で魔術的な魅力/8月のまとめ

人はなぜ、映画を観るのだろうか

人はなぜ、映画を観るのだろうと、ふと思った。
当たり前だが、人が映画を観る理由など、人の数だけある。

質問を変えてみる。

わたしはなぜ映画を観るのだろう。
これなら、なにかしらの答えが見えてくるだろう。


わたしの場合、子どもの頃のドラえもん映画が最初の映画体験だった。その中でも特に『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』が大好きだということは、このブログの最初の記事に書いた。

2016年1月2日更新:友情と勇気を持って不正義へ立ち向かえ/『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』
記事リンク:http://nobitter73.hatenablog.com/entry/20160102/1451704162

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お前たちも真剣に闘っているか? 子どもたちが応援したくなるくらいに/『ナチョ・リブレ 覆面の神様』

本当のヒーローとは

映画『ナチョ・リブレ』は、教会の修道院で働く料理人でもある修道士イグナシオがプロレスラーとなって活躍する姿を描くコメディ。主人公のイグナシオは、修道院の子どもたちに満足な食事を与えられないことに不満を抱いている。教会が料理に回してくれる予算が少ないからだ。

そんなイグナシオは、本当の名前も顔も伏せた覆面レスラー・ナチョとなる。場末のアマチュアプロレスに出場すれば、ファイトマネーを稼ぐことができる。そのお金で、子どもたちにもっと良い食事を食べさせられる。そこでイグナシオは街で出会ったひったくりの男スティーブンとともにコンビを組んで、覆面レスラーとして奮闘しはじめるが、というストーリー。

『ナチョ・リブレ』のストーリーは単純明快で、ベタと言えばベタな展開だ。(コメディ)映画的な紆余曲折があって、最後には強大な敵を打ち倒し、ハッピーエンドを迎えるのだろうと予想もついてしまう。でも、修道院の子どもたちのために奮闘するイグナシオの姿を、わたしたちはやっぱり応援しながら見守ることになる。

覆面レスラーのナチョとして子どもたちのために闘うイグナシオは小太りで背の低い、もっさりとしたさえない中年男性。その体型は三頭身、あるいは四頭身くらいに見えて、なかなかユーモラスではある。だが、見た目からしてお世辞にも”ヒーロー”とは呼べそうもないし、強そうでもない。それでも、あるいはそれだからこそ、イグナシオが必死に闘う姿にわたしたちはつい声援を送ってしまうのだ。

それは、イグナシオの闘う姿にわたしたちはヒーローの姿を見出すからだ。どんなにかっこ悪くて、みじめでぶざまな姿をさらそうとも、敵や困難に立ち向かい、その背中を子どもたちが目をキラキラさせながら応援するからだ。映画『ナチョ・リブレ』、本当のヒーローとはということをわたしたちに示す一本だと言える。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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俺はセクシーなデブなのさ/『スクール・オブ・ロック』

うそくささのない物語

ロックとは感情を爆発させるためのものだ。映画『スクール・オブ・ロック』を観て、今さらながらにそのことを再認識した。日々の生活の中で自分の中に溜まっていく不満や不平、やり場のない怒りや憤り。そういったネガティブな感情を言葉に置き換え、激しいリズムとメロディに乗せ、爆発させる。それがロックだ。

ロックは怒りを爆発させるものだと、本作の主人公のデューイは子どもたちに伝える。そして子どもたちは、日常生活の中で抱える不満や怒りを言葉にして歌ってみる。その場面に映し出される子どもたちの表情は、実に楽しそうで晴れやかだ。本来は怒りや不満といったネガティブな感情を表に出しているはずなのに。ロックにはネガティブな感情を昇華させる力があることを示しているのだ。

本作では暗い表情、不安な表情を浮かべていた子どもたちが、最後には必ず楽しそうで晴れやかな表情を浮かべるのが印象に残る。人々が抱える鬱屈した暗い感情さえも、ロック的な言葉にして、ロック的な歌として声に出す。すると、そこには人を輝かせる力、さらには世界を変える力が宿る。映画『スクール・オブ・ロック』を観終わったあと、すっきりと晴れた青空のようなカタルシスを感じながら、そんなことを思った。


映画『スクール・オブ・ロック』はタイトルのとおり、「ロックの学校」の物語。売れないロックミュージシャン・デューイが友人のネッドになりすまして臨時教師となり、名門私立小学校に通う10歳の子どもたちにロックを教える。そして「スクール・オブ・ロック」という名のバンドを組み、バンド・バトルで優勝することを目指す、というストーリー。

デューイの行動原理は、もともとが私利私欲だ。だから、ロックを通じて音楽の素晴らしさを子どもたちに伝えるとか、クラスの絆を再確認するとか、そういったありがちな設定やうそくさい目的が本作に満ちていないところが良い。純粋にロックを演奏する喜びが描かれているのが素晴らしい。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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