「オフビートな笑い」がわからない
「オフビートな笑い」がわからない:目次
- 「オフビートな笑い」とは何か?
- 言いたいことはわかるけど
- じわじわとくる可笑しみ
- 参考リンク
「オフビートな笑い」とは何か?
ある短編小説集の解説を読んでいたとき、たまたま「オフビートな笑い」という言葉に出くわした。
作者の特徴のひとつとして、「オフビートな笑い」が挙げられていたのだ。それでふと、疑問に思ったのだ。「オフビートな笑い」とはなんぞや? と。
「オフビートな笑い」という表現、現状では使用例の95%くらいが映画の紹介や批評の場で使われている(当社調べ)。むしろ、映画以外での使用例などほとんど見聞きしたことがない。
そのため、本の解説に予期せず「オフビートな笑い」なる表現が出てきたので、気になったのだ。
※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。
夜明けの光の中に/『ダウントン・アビー(映画版)』
夜明けの光の中に/『ダウントン・アビー(映画版)』:目次
- 一筋縄ではいかない屈折した人間模様
- みんないい人になったなあ
- 疾走する蒸気機関車
- 参考リンク
一筋縄ではいかない屈折した人間模様
わたしは『ダウントン・アビー』のテレビシリーズを熱心に観ていたひとりだ。そこで描かれる貴族と使用人たちの人間模様が実に魅力的で、約50分前後の物語があっという間に過ぎていった。
『ダウントン・アビー』(テレビシリーズ版)は、1912年のタイタニック号沈没事故から第一次世界大戦、アイルランド独立戦争などの歴史上の出来事や社会情勢を背景に、グランサム伯爵クローリー家と彼らに仕える使用人たちの人間模様を描いてきた。
テレビシリーズの魅力はなんといっても、その人間模様だ。クローリー家や使用人の内部で互いに敵意や確執を抱えている。それが意地悪で陰湿な言動につながり、さらに敵意や確執が深まってゆく。一筋縄ではいかない屈折した関係性が絡まり合っているのだ。
もちろんそこには家族間の情愛や、貴族と使用人を超えた信頼関係も存在する。そこがまたこの物語の救いであり、シリーズを通して登場人物たちの抱く敵対心や確執が溶けてゆく過程が、この物語の大いなる魅力であり、同時に推進力となるのだ。
※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。
半世紀前のサザエさん
続きを読むやっとプライムビデオで初期サザエさんを観た(初回と第2回)。キャラ設定というか、磯野家の人々の性格が今とはまったく違って、わりと人でなし感が強かった。あとはドタバタギャクのテンポがトムとジェリーみたいな印象だが、このテンポが現在の人々に受けるかはわからない。
— のびゲートウェイ (@nobitter73) 2018年12月29日
オリンピックばかり観ていた/『誤読と曲解の映画日記』2018年2月のまとめ
オリンピックばかり観ていた/『誤読と曲解の映画日記』2018年2月のまとめ:目次
- ピョンチャンオリンピックばかり観ていた
- 『誤読と曲解の映画日記』今月のまとめ
- 『誤読と曲解の読書日記』今月のまとめ
- 管理人からのお知らせ
- ①カテゴリーを充実させました
- ②3月の更新は休みます
ピョンチャンオリンピックばかり観ていた
ピョンチャンオリンピックばかり観ていて、映画を観る時間が確保できませんでした。
せっかくの機会だからと、ウィンタースポーツをテーマにした映画を観ようとも思い立ちませんでした。そう思い立ったのは、オリンピックが終わったあとのことです。
ウィンタースポーツに限らず、スポーツをテーマにした映画は多々あります。
人間ドラマを見るのなら映画を見た方がいいのでしょうが、競技や試合のシーンとなると、やはり実際の競技の方に軍配が上がってしまいますね。
やはり、事前に書いたシナリオがあって、大体の結末が予測できる映画よりも、試合の展開や勝負の行方を完全に予測できない実際の試合の方が圧倒的に興奮し、集中できるからでしょうか。
それでは、今月のまとめをどうぞ。
親指をしゃぶる自分を飾らずに世界にさらせ/『サムサッカー』
親指をしゃぶる自分を飾らずに世界にさらせ/『サムサッカー』:目次
- じんわりとしたさわやかさをもたらす物語
- ただ、親指をしゃぶる癖が抜けないだけ
- ジャスティンを取り巻く普通の平凡な大人たち
- ありのままの自分を飾らずに世界にさらすこと
- 映画の概要・受賞歴など
- 参考リンク
じんわりとしたさわやかさをもたらす物語
映画『サムサッカー』は、十七歳の少年ジャスティンの青春を描く物語。ジャスティンは常に自分に苛立ち、そんな自分を良い方向に変えたいともがいている。ありのままの自分が、自身の力で未来をつかみとることの大切さを描く物語とも言えるだろう。
主人公のジャスティンは、親指をしゃぶる癖が抜けない17歳の高校生。あるときジャスティンは歯医者のペリー先生からあやしげな催眠術をかけられる。親指をしゃぶる癖は治ったものの、今度は極端な行動に走ってしまい、ADHD(注意欠陥多動性障害)と診断される。そこで投薬をはじめたジャスティンは次第に活動的にあり、弁論クラブの地区大会で優勝するほどの活躍を見せるようになるが……、というストーリーだ。
わたしはこの物語をそれほど期待しないで観たのだが、ジャスティンが自分を変えたいと必死にもがいている姿を、気がつけば見守るような気持ちで観ていた。17歳の高校生だからこその不安と悩みにとらわれ、そして自己愛に満ちたジャスティンの姿は、かつて17歳だったわたしたちの姿でもあるからだろう。
わたしはどちらかといえばジャスティンの両親や先生に近い方の年齢なので、思わずジャスティンの危うさをハラハラしながら、そっちの方向に進むなと思いながら観ていた。その一方で、ジャスティンもまた傷つきながら、あるべき方向へ必死に舵取りをする姿を観ながら、これなら大丈夫な方向に進むかもしれないと思ったのもたしかだ。
他人から見ればそこまで深刻ではないが、でも本人たちにとっては深刻な問題を抱えながらも、未来に向かってどのように生きるか悩みながら前へともがくように進むジャスティンの姿が、最後にじんわりとしたさわやかさをもたらす物語である。
※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。