誤読と曲解の映画日記

映画鑑賞日記です。

すべての荷物を投げ捨てて/『ダージリン急行』

すべての荷物を投げ捨てて/『ダージリン急行』:目次

  • ここから逃げ出すことはできないからこそ
  • 「僕たちの居場所は不明」
  • 子どもの死をきっかけに
  • すべての荷物を投げ捨てて
  • 映画の概要・受賞歴など
  • 参考リンク

ここから逃げ出すことはできないからこそ

ひとりの中年ビジネスマンがダージリン急行に向かって急ぐシーンから、この物語は幕を開ける。タクシーを飛ばし、大慌てで駅に駆け込み、そして今まさにホームから出発しはじめていたダージリン急行に飛び乗ろうとする。けれども、この中年ビジネスマンは、大きなトランクをふたつ抱えているせいか、走っても走ってもダージリン急行に追いつかない。

そこにもうひとり、走りはじめたダージリン急行の車両を追いかけるひとりの男。こちらも大きなトランクを抱えているが、なんとかダージリン急行の最後尾に飛び乗ることに成功した。ダージリン急行はこのもうひとりの男を乗せ、そして列車に追いつくことを諦めた中年ビジネスマンをホームに残し、スピードを上げてゆく。

このダージリン急行に追いついたもうひとりの男は、この物語の主人公のひとりであるピーターだ。ピーターが客車のコンパートメントに着くと、そこには弟のジャックがいた。さらにそこへ、兄のフランシスもやってくる。このようなホットマン三兄弟の一年ぶりの再会から、この物語は本格的に動きはじめる。

よく考えてみれば、大人になった兄弟だけでともに旅をする機会などあまりない。特にここはインドというホイットマン三兄弟の暮らす場所から遠く離れた土地だ。自分たちの住む国から遠く離れたインドという土地だからこそ、ホイットマン三兄弟は反発しあい、ぶつかり合いながらも一緒に旅を続けざるを得ない。

ここから逃げ出すことはできないからこそ、じっくり互いと向き合い、そして自分と向き合わざるを得ないのだ。そんな旅を通して、ホイットマン三兄弟は自分たち兄弟の関係性を再確認し、自分を再生させてゆく。映画『ダージリン急行』は、そのようなホイットマン三兄弟の旅を描き出す物語だ。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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ウディ・アレンとニューオリンズ・ジャズ/『ワイルド・マン・ブルース』

ウディ・アレンニューオリンズ・ジャズ/『ワイルド・マン・ブルース』:目次

※なお、この作品はウディ・アレン監督作品ではないが、ウディ・アレン監督を取り上げた作品のため、このブログでは「ウディ・アレン監督作品」のカテゴリーに入れた。

クラリネット奏者としてのウディ・アレン

映画監督・俳優として知られるウディ・アレンの姿を描くドキュメンタリー映画ウディ・アレンの姿を描くと言っても、映画監督や俳優としての姿ではない。ウディ・アレンのジャズマンとしての姿、クラリネット奏者としての姿を描き出すのだ。そこでは、真剣にクラリネットに向き合うウディ・アレンの、普段の映画を通じた姿とは異なった姿を目撃することができる。

このドキュメンタリーでは、ウディ・アレンニューオリンズ・ジャズのバンドとともに、ヨーロッパツアーへと出かけた一部始終を題材にしている。ウディ・アレン自身、このバンドで25年以上演奏をしてきたという。そんな気心の知れたメンバーたちとともにヨーロッパ各地をめぐる、クラリネット奏者としてのウディ・アレンの姿を、このドキュメンタリーは描き出す。

また、ウディ・アレン自身が語る、ニューオリンズ・ジャズとの出会いや音楽との関係についても言及する箇所があり、彼自身の音楽観についても、うかがい知ることのできる作品となっている。わたしたちは、このドキュメンタリーで語られるウディ・アレンの音楽観が、彼の映画に使われる多くの音楽にも影響を及ぼしているのだなあと思いをめぐらせてしまう。

この作品は基本的にドキュメンタリーなので、当たり前だが誰も演技をしていない。カメラを意識しているというのはあるとしても、そこに映し出されるウディ・アレンや彼のバンドメンバー、彼を支えるスタッフとのやりとりが妙に軽妙であり、どこかずれているところもある。まるでひとつのウディ・アレンのコメディ映画のようで楽しめる。そのやりとりを通じて、ウディ・アレンの人柄や周囲の人々との関係性までうかがうことができる。


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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星空の下で映画を/『誤読と曲解の映画日記』2017年7月のまとめ

星空の下で映画を/『誤読と曲解の映画日記』2017年7月のまとめ:目次

  • 星空の下で映画を
  • 『誤読と曲解の映画日記』今月のまとめ
  • 『誤読と曲解の読書日記』今月のまとめ
  • 管理人からのお知らせ:九州北部豪雨への義援金など

星空の下で映画を

屋外で映画を観たことがないことに気づきました。映画館などの常設の建物の中で映画を観るのではなく、星空の下で映画を鑑賞するものです。夜風に吹かれながら星空の下で映画を観るのもいいなあと思うのですが、なかなか機会がありません。

ところで、夏休みの子ども向けに、町内会や子ども会が近所の空き地で、子ども向け映画の上映をする、みたいな話が、たしか『ちびまる子ちゃん』にあったと思うんですが、そんなことを実際に体験した記憶がないので、おそらくはわたしの人生で一度も屋外で映画を観たことはないはずです。

さて、屋外で映画を観るといっても、屋外に常設してある映画館はほとんどないので、夏のイベントなどの際の企画的なものとなります。

東京などの都会では、夏休み期間中にさまざまな屋外映画上映のイベントがあるようですが、わたしの住む地方ではそういうものはまず、ありません。。。こういうときは、やはり都会がうらやましいですね。こちらではビルの屋上だったり、公園だったり、都会の喧騒を忘れて映画を楽しむ、みたいな感じでしょうか。

1)恵比寿ガーデンプレイス、野外の芝生で映画鑑賞『シング・ストリート 未来へのうた』など12作品無料上映/FASHION PRESS
https://www.fashion-press.net/news/24145

2)新宿中央公園に屋外シアター!ミニオンズ』『フラガール』など無料上映/シネマトゥデイ
https://www.cinematoday.jp/news/N0092779


また、夏だけの限定イベントとして、屋外の映画上映を行うところもいくつかあるようです。いずれも大自然に囲まれて、星空の下で映画を楽しむというもののようです。

1)星空の映画祭/公式ホームページ
http://www.hoshizoraeiga.com
長野県の八ヶ岳で行われるもの。

2)湖畔の映画祭/公式ホームページ
http://kohan-filmfest.info/index.html
山梨県富士河口湖町本栖湖の湖畔で行われるもの。


こうしてみると、星空の下で映画を観ることは、本当に特別な体験ですね。いつもとは違った非日常感の中で、たっぷりと映画の世界に入り込むことができそうです。

ところで、星空の下でベランダにパソコンを持ち出して映画のDVDを観るのも、屋外で映画を観るという意味では、上記の屋外での映画鑑賞と同じようなものですけど、なぜこんなにやってみることに勇気がいるのでしょうか。いや、そんなことはしませんけど。


それでは、『誤読と曲解の映画日記』今月のまとめをどうぞ。

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悲惨なかたちではあれ、自分の人生から逃れられた男の物語/『バーバー』

悲惨なかたちではあれ、自分の人生から逃れられた男の物語/『バーバー』:目次

  • 空虚な自分の人生から抜け出したいと願った男
  • どこかにあるはずだった本当の自分の人生
  • 偶発的な悲劇がもたらす悲劇の連鎖
  • 弁護士を頼んだことでますます自分の運命に縛られる
  • 善良なるものがもたらす身の破滅へと突き進むための手助け
  • うんざりとした人生から、ようやく解放される
  • 映画の概要・受賞歴など
  • 参考リンク

空虚な自分の人生から抜け出したいと願った男

映画『バーバー』は、自分の人生を生きることのできなかった男の悲劇を描いた物語だと言える。誰しもが自分の人生にうんざりし、自分はこんな人生を歩むはずじゃなかった、あるいは新しい人生をはじめたいと、心の奥底で願ったことがあるだろう。この物語の主人公エド・クレインも自分の人生にうんざりし、心の奥底では自分の人生を大きく変えたいと願っていた。

エドは、ベンチャー事業への投資を機に自分の人生を変えようと一大決心するが、それが身の破滅を招いてしまう。この作品は、エドが人生に感じる倦怠から抜け出そうともがくが、蟻地獄にはまったかのように自分の人生からは逃れることができなかったが、最後の瞬間になってようやく、自分の人生から抜け出すことができた男を描く物語だ。

この物語に出てくる人物たちは、みなどこかに悪を抱えている。ほとんどの人物は小さな悪であり、その悪を抱えていることを自分が自覚しているかどうかもあやしいところである。

いくつかの小さな悪がもたらした成り行きによって、エドは殺人という大きな悪を犯してしまう。そのあとも、小さな悪と呼ぶべきものを抱えた人物たちによって、エドの人生や運命といったものがエド自身でさえ抗うことのできない流れに巻き込まれてしまい、最後には身の破滅を招いてしまうのだ。ある意味では因果応報とも言えるだろう。わたしたちの目にはそのように見えても不思議ではないが、この物語は本当に因果応報の話なのだろうか?

もともと、エド自身も自分の人生や運命の手綱をうまく自分の手で握っていたわけではなかった。しかし、自分の人生を変えたいというエドが、成り行きでデイヴを殺害してしまうことで、エドの人生や運命はますます自分ではどうしようもない大きな流れの中に巻き込まれてしまうのである。それは悲劇的な人生の終着地点まで、容赦なく流してしまうのだ。

そういう意味で、この話はどこにも救いを見出せない悲惨な物語であると、わたしたちの目には映ってしまう。けれども、この物語は本当に救いようのない悲惨な話なのだろうか?
Barber


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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自己保身と自己憐憫、そして希望/『羅生門』

自己保身と自己憐憫、そして希望/『羅生門』:目次

  • 絶え間ない雨の音の聞こえる羅生門と緊張感の満ちる藪の中
  • 汚い人間の本性に染まった下人と、人を信じようとする旅法師
  • 自分の嘘を覆い隠すための「演技」
  • 自己保身が羅生門の下に引きずり出される
  • 人間不信のあとに訪れた人間への希望
  • 映画の概要・受賞歴など
  • 参考リンク

絶え間ない雨の音の聞こえる羅生門と緊張感の満ちる藪の中

羅生門』は、エゴイズム丸出しの人間に触れ続け、人間不信に陥った果てに、かすかな希望を見出すまでを描いた物語。羅生門でのシーンでは、絶え間なく降り続ける激しい雨の音が、わたしたちの心をざわざわと落ち着かなくさせる。藪の中の出来事を回想するシーンでは、ぎらぎらと照りつける太陽の光とそれを遮る無数の木の枝葉が織りなす、白黒のはっきりとしたコントラストが、息詰まる緊張感をわたしたちに与える。物語はこのふたつの世界を行き来しながら進む。

舞台は平安時代。京の都の羅生門の下で雨宿りをする木こりと旅法師。羅生門の半分は大きくうち崩れてしまっている。戦乱、伝染病の流行、火事や大風、地震飢饉などの不幸が相次ぎ、さらには夜な夜な盗賊が盗みを働いてまわるなど、京の都は荒れ果てていた。今にも崩れ落ちそうな羅生門の荒れ果てた姿は、荒涼としているのは京の都だけではなく、そこに住む人々の心までもが荒涼としたものに覆い尽くされてしまったことを示しているかのようだ。

木こりと旅法師はそんな羅生門の下で雨宿りしていたが、そこへ今度は下人が駆け込んでくる。雨を逃れるためなのだろう。羅生門に下では、呆然としたまま「わからない、わからない」とつぶやき続ける木こりと、やはり呆然と座り込んでいる旅法師。そんなふたりに興味を持ち、話しかける下人。そこで、木こりと旅法師が検非違使庁で見聞きしたばかりの、恐ろしくて奇妙な話を聞き出すところから、物語ははじまる。

木こりと旅法師が呼び出された検非違使庁では、事件の関係者がそれぞれが自分に都合のよい話をした。事件の関係者の話は、みな自分を憐れみ、そして自分を少しでもよく見せようとした、エゴイズムがむき出しになった話だった。物語が進むにつれ、そんな話をさんざん聞かされたあとだったために、木こりと旅法師はすっかり人間不信に陥っていたことがわかってくる。
downpour


※以下、ネタバレ的な要素が含まれています。

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